四人がこの国に逗留して、早三週間が過ぎようとしていた。にも拘らずミトスは相変わらず毎日クロス王子の部屋へ通い続けており、未だ仲間達に対して、今後どうするか態度を明確にしていない。それでミトスを覗く三人の仲間達は、宛がわれた客間にて鬱屈とした日々を送っていたのだった。


 「ミトスはまたクロス王子のところか?」
 窓辺に立ち、眼下に広がる城下町を眺めながらユアンが言った。しかしそれに対する返事はなく、ユアンはムッとして振り返ると、ソファーに座っているクラトスを睨み付けた。
 今ユアンは無性に誰かと話がしたかったのだ。人恋しいとはこういう心境を言うのかもしれない。なにしろこのところずっとこの部屋に缶詰も同じ状態なのだ。たまに出かけると言っても城下の町止まり。あそこの連中の上っ面だけのお愛想を聞いていても気分が悪くなるだけで、ストレス解消にはならない。
 しかしミトスはおらず、マーテルもどこかへ出かけてしまっている為、現在この部屋にいるのは自分の他クラトスだけ…。はっきり言ってこの男は無口な上に偏屈で、話していても全然面白くはないのだが、他にいないのだから仕方がない。こんな男でも退屈しのぎぐらいにはなるだろうと話しかけてみたのだった。
 それなのにこの男ときたら、何度話しかけても、まるでユアンなど眼中にはないとでも言うかのように本に読み耽るばかりで全く返事をしてこない。こうなると是が非でも振り向かせたくなってしまうものである。
 そこでユアンはクラトスの前にしゃがみ込むと強引に話しかけ始めたのだった。
「もしも〜し、聞こえますか〜?もしも〜し。」

 返事はない。
 物凄い集中力だ。

 今度は顔を覗き込み、その前で掌をひらひらとさせてみる。
「もしも〜し?もしも〜し?」
 ここに来てようやくクラトスは動きを見せた。眉を顰めユアンに目をやる。
「何だ?さっきからごちゃごちゃと煩い奴だな。ミトスならクロス王子のところだ。お前もあれが朝食もそこそこに、いそいそと出かけていくのを見ていたのだから分かるだろう。」
「!!…聞こえているのなら返事ぐらいせんかっ!!」
 思わず怒鳴り声を上げたユアン。しかし当のクラトスは全く応えている様子はなく、再び読書に戻ろうとしている。その為ユアンは、今度はその本を取り上げてしまった。
「あ…」
「『あ…』じゃない!話はまだ終わっていないんだ。お前は、人が話している時は礼節を持って耳を傾けろと教わらなかったのか!?……って、ここで説教をしていても仕方がないな。この際お前の事などどうでもいいのだ。今私が問題としているのはミトスの事なのだ。」
 溜め息をつきながら本を返すユアン。
 クラトスはそれを受け取ったものの、今度はそれを開こうとはせず横にあるテーフルの上に置いた。こう言うところはわりと素直なのかもしれない。
 それからクラトスは居住まいを正すと、ユアンを真っ直ぐに見詰め言った。
「で、ミトスの問題とは何だ?」
「え?…あ、ああ。しかしそう改まって聞かれるとちと話し辛いものがあるな…。大体お前は単刀直入すぎる嫌いがある。物事には順序と言うものがあるのだ。もっと心にゆとりをもってだな…」
 クラトスの苛々とした視線を受け、ユアンは咳払いをした。
「分かったよ。お前流に単刀直入に言えばいいのだろう……問題と言うのはつまりだな、ほれ、我々がここに滞在してもう三週間になるだろう?ミトスもすっかりクロス王子と仲良くなったようだし、もういい加減旅を再開してもいいのではと言う事なのだ。それなのにミトスときたら、その話題になりそうになると殊更逸らそうとしている。もしかしてあいつ、あの約束を反故にする気なのではと思ったものでな。」
「あの約束?」
「もう忘れちまったのか!?三週間前の約束の事だ!」
 首を傾げてみせるクラトスに、ユアンは苛々としたように叫んだ。だがすぐに深呼吸をすると気分を落ち着かせる。
 こいつと付き合うには忍耐が必要だ。一々短気を起こしていたらこちらの身が持たない。
「…あいつは旅立ちを迫る私達に、クロス王子が心を開くまで待ってくれと言っていただろうが。今朝のミトスの様子からするに、クロス王子はもう大分打ち解けている筈だ。もう十分だろう。期間は満了したと見ていいのではないのか?それなのにあいつは全然動こうとしない。反故にしようとしているとしか考えられん。お前だってそう思うだろう?」
 だがクラトスは難しい顔をして頭を振るとこう言ったのだった。
「……どうやらお前はあの意味を取り違えてしまっているようだな。あの時ミトスは『クロスが他の人達にも心を開けるようになるまで』と言ったのだぞ。」
「え?」
 訳が分からず、きょとんとするユアン。
「つまりミトスだけでなく、父王や側近達、世話係の者達、それら周りにいる人間全てに心を開くまでと言う意味だ。だが、閉じている心を開かせるにはただでさえ時間がかかるもの。クロス王子の場合、人間に対する憎しみが大きい分尚更だろう。三週間やそこらで簡単に出来るものではない。いや、もしかしたら永久に無理かもしれない…。恐らくミトスはそれを承知でわざとこの期限を提案してきたんだよ。そして私達はそれを承諾したのだから、文句は言えないのではないかな。」
 ユアンはあんぐりと口を開けた。
「嘘だろ?……じょ、冗談じゃないぞ!?それじゃあ旅は止めようと言っているのと同じではないか!あいつ、私達を騙したって事か?」
「結果的にはそうなるかもしれんが、ミトスからしてみればそんな気なんてなかっただろう。あれはただ、友達の傍にずっといたかっただけなのだ。かと言って私達とも別れたくなかった…だからこんな手を使わざるを得なかったのだ。だがこんなどっちつかずの状態をいつまでも続けられるものではない。ミトスにもその事は十分にわかっている筈だ。そう心配せずともきっと近い内に結論を出してくれるだろう。」
「それじゃあ遅いんだ!!もうそんなに待ってられないんだよ。あんなもん見ちまったら一日だってこんなところには…」
 そこまで言ってしまってから、ユアンは慌てて口を噤んだ。
 この件は言わずにおこうと思っていた事だった。知らない方が幸せな事もあるものだ。隠したとていずれは分かってしまうだろうが、その前にここを発ってしまえば済む。なにも好き好んで波風を立てる必要はないだろうと考えていたのだ。
 だがすでに口を衝いて出てしまった言葉を今更引っ込める訳にもいかず、それはクラトスの耳にしっかりと届いてしまっていた。
「待て、ユアン。『あんなもの』とは何だ?」
「え…と…そ、そんな事どうでもいいだろっ!『あんなもの』とは『あんなもの』だ。お前には関係ない!」
「関係ない事はないだろう?お前は一体何を見たのだ?」
「あ〜〜〜、煩い!!関係ないと言ったら関係ないんだよ。しつこいぞ、お前!」
 ついにキレるユアン。いや、キレた振りをして誤魔化そうとしたと言った方が正しいだろうか。
「大体な、どう言い繕ったとしてもミトスが私達を騙した事に変わりはない。それでもあいつの場合、気持ちが分からないでもないから許しもしよう。だがお前は何だ?ミトスの意図が分かっていながら何故それを黙っていた?私としてはむしろそっちの方が頭にくる。例えあの場で言い出せなかったとしてもだ。あとからこっそり教えてくれても良さそうなものだろう。」
「ならば聞こう。もし教えていたら、お前はどうした?ミトスを責め立て、無理矢理旅立たせていたか?」
「え?…そ、それは…」
「そんな事出来なかっただろう?つまり言っても言わなくても今の状況に変わりはなかった。それなら言わない方がいい。そう考えただけだ。」
 そう言って目を伏せるクラトスを見て、ユアンは今度こそ本当にキレてしまった。
「何なんだ、その事なかれ主義は!!…お前はいつもそうだ。お前だって本当はミトスがクロス王子に夢中になるのを快く思っていない筈だ。旅を続けたいと思っている筈だ。それなのに何故自分の意見をきちんと言わない?」
「それを言うならお前だって同じだろう?先程も何か言いかけて止めたばかりではないか。」
 その一言は確実にユアンの胸を貫いた。思わず言葉を詰まらせてしまう。
「それにミトスの事ならマーテルも気付いていた筈だ。でも彼女も何も言わなかった。彼女が言えなかった事をどうして私が言う事が出来る?それでなくても私は…」
 だがクラトスはそこでいきなり言葉を切った。よく見ればその目は僅かながら泳いでいる。

 もしかして動揺しているのか?
 これはさっきの自分と同じだ。言うつもりでなかった事を思わず口走ってしまった後悔の表情…。

 そこでクラトスが言った事を思い返してみるユアン。やがて一つの結論に達し、目を見開いた。
「お前…まさか…」
 ところがユアンが言葉を継ごうとしたその時、バターンと言う凄い音で扉が開かれたのだった。
 ギクリとして同時に振り返る二人。
 そこに立っていたのは荷物をたくさん抱えたマーテルであった。
 そして彼女は、さすがと言おうか、部屋に入ってくるとすぐにその場の重苦しい空気を感じ取ってしまったようで、小首を傾げると二人を交互に見比べながら問うて来た。
「どうしたの、二人とも?何か変よ。喧嘩でもしたの?」
「ん?…いや、何でもないのだ。」
 俯いたままのクラトスの方を気にしながらも、笑みを浮かべマーテルを迎え入れるユアン。なんとかしてマーテルの注意を逸らそうと、話題を変える事に努める。
「それにしてもまた買い込んだものだな。凄い荷物だ。」
 その作戦は見事に成功したようだった。どうやらマーテルはその事を聞いてくれるのを密かに心待ちにしていたようで、途端にころりと表情を一転させるとペロリと舌を出しながらこう言ったのだった。
「あら、気付いちゃったのね。」

 気付くも何もないだろう…。
 これだけ荷物を抱えていれば嫌でも目に入ってくる。

 ユアンはそう思ったものの、取り敢えずマーテルを手伝って荷物を部屋の隅に落ち着けた。
「有難う、ユアン。」
 マーテルはにっこりとして礼を言うと、嬉しそうに再び話始めた。
「実はね。部屋の中に籠っていても気が塞ぐだけだから、思い切って気分転換に買い物に出てみたの。そうしたら行くところ行くところでおまけしてくれるものだから、嬉しくてつい買い過ぎちゃったのよ。こんな事初めてですもの。王子様がハーフエルフと言う事もあるのでしょうけど、この国は本当に良い国よね。」
 と、その時だった。今まで黙ったままソファーに座っていたクラトスがこのマーテルの言葉にピクリと反応を示したのだ。
「良い国?」
 クラトスが話に加わってきてくれた事に、マーテルは殊更機嫌を良くしたようだった。クラトスに笑顔を向けると頷いてみせる。
「ええ、良い国だと思うわ。だって他の国ならハーフエルフと言うだけで間違いなく門前払いよ。でもここでは決してそんな事はせず、それどころかとても丁重に扱ってくれる上に、特別にサービスもしてくれるのよ。私達ハーフエルフにとっては天国みたいな環境だわ。理想郷と言ってもいいんじゃないかしら。」
 ところがそんな嬉しくてたまらないと言った様子のマーテルに反して、何故かクラトスは浮かぬ顔である。
「理想郷……」
と、一言呟いたきり、考え込んでしまう。
 不思議そうな表情を浮かべるマーテル。彼女はクラトスも当然喜んでくれるものと思っていたのだ。だからこの反応にはどうしても合点がいかなかった。そこで、もしかしたら彼は話の内容を取り違えたのかもしれないと、もう一度言い直してみる。
「クラトス、どうしたの?ハーフエルフだからって差別をしない国。それって私達の理想そのものじゃない。そうでしょう?」
 しかしクラトスの表情は変わらぬままであった。そしてしばしの沈黙の後マーテルを真っ直ぐに見詰めるとこう言ったのだった。
「……そんな風にハーフエルフがちやほやされる事がお前達の掲げる理想だったのか?」
「え?」
「だとしたら、私は今までずっと大変な思い違いをしていたようだな。」
 すっと立ち上がるクラトス。
 これにはマーテルも慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってよ。それって一体どういう意味なの?」
 だがクラトスはそのマーテルの問いには答えることはなく、一言
「散歩してくる。」
と言い置くと、そのまま部屋を出て行ってしまったのだった。

「クラトスったら、どうしちゃったのかしら。」
 肩を竦め、ユアンを見るマーテル。だがそのユアンは彼女の問いに答えるどころではなさそうで、クラトスが出て行った扉を呆然と見詰めていた。
「ユアン?…ちょっとどうしたの?さっきから二人ともおかしいわ。一体何があったの?」
「え?…あ、ああ…」
 ユアンは、先程のクラトスに驚いてしまっていたのである。いつも何があっても傍観を決め込んでいたあのクラトスが、まさかマーテルに対してあんな言い方をするとは思ってもいなかったのだ。
 ミトスの事で言い争っていた時にクラトスが言った言葉…

 “彼女が言えなかった事をどうして私が言う事が出来る?それでなくても私は…”

 あれでユアンには、クラトスの心の内が初めて理解出来たのだった。そしてだからこそ、クラトスが起こした行動が信じられなかったのである。

 恐らくクラトスは自分一人が人間である事に引け目を感じてしまっているのだ。そしてそうさせてしまった原因は自分達にある。自分達は気付かぬ内に彼の事を特別な存在として見てしまっていたのだ。彼の前で人種の話題に触れる事を殊更避けるようになり、何かあれば『彼はハーフエルフじゃないんだから』の一言で済まそうとしていた。差別をしていたのは自分達の方だったのだ。
 クラトスはそれを敏感に感じ取ってしまっていたのだろう。。だからどんなに自分の意に染まない事があったとしても決して反対を唱えようとはせず、飽くまでも中立を貫いてきた。そうしなければ私達との間の絆が切れてしまうと思い込んでいるのだろう。つまり彼は私達の事を信じていないのだ。
 そしてこれはクラトスに限った事ではなく、私達全員に言える事かもしれない。仲間だと言いながらもお互い深く関わろうとして来なかったのは、心の底で相手の事を信じきれていなかったからではないだろうか。
 この私達の変に捻じ曲がった関係を修復したいならば、まず自分が変わる事だ。そうする事で、自ずと周りも変わっていくに違いない。
 出来ない事はない。現にさっき、あのクラトスが自分の殻を破ろうとしたではないか。結局完全には破り切れなかったものの、そうしようと試みた彼の勇気は見倣わなければならない。

「マーテル!」
 ユアンはマーテルをじっと見詰めた。
「えっ?な、何?」
「…これからさっきのクラトスが言った言葉の意味を考えてみないか?私達にはそうしなければならない義務がある。仲間として、ようやく漏らしたあいつの本音としっかりと向き合う必要があると思うのだ。」
 マーテルは驚いたようにユアンを見返していたが、やがて笑顔を浮かべると言った。
「ええ、そうね。その通りだと思うわ。」
「有難う……だがその前に君に話しておきたい事があるんだ。ただこれは君にとってはいい話ではないかもしれない。聞きたくなかったと怒るかもしれない。」
 目を伏せ、拳を握り締めるユアン。

 嫌われる事を恐れるな…。
 真の絆を得るためには、時に傷付けあう事も必要なんだ。

 ユアンは再びマーテルを見詰めると思い切って言った。
「それでも話しておきたいのだ。聞いてくれるだろうか?」
「馬鹿ね、当たり前じゃない。本音と向き合う必要があるって今さっきあなたが言った事なのよ。私もそう思う。だからどんな事でも目を逸らさずに受け止めるわ。だってクラトスもあなたも、大切な仲間なんですもの。そうでしょう?」
 ホッとした笑みを浮かべるユアン。
 そしてユアンは、先日町で目にした事をゆっくりと語りだしたのだった。



 一方、町へと出てきたクラトスは、自己嫌悪に陥っていた。今日の自分は饒舌すぎた。ユアンにも、マーテルにも…。
 だが、どうしても自分を抑える事が出来なかったのだ。ユアンの言葉に刺激を受けたのかもしれない。
 事なかれ主義……ユアンの言う事は尤もなのだ。確かに自分は今まで何事に対しても傍観を決め込んできた。例え彼らの意見が間違っていると思っても、故意にそれを正す事を避けてきた。こんな事を言ったらミトス達は自分の事をどう思うだろう、違うと思うのは自分が人間だからではないだろうか、そんな恐れが先に立ち、何も言えなくなってしまっていたのだ。
 そこをユアンに衝かれ、このままではいけない、変えなければと思った。でも駄目だった。最後の最後でやはり引いてしまう自分がいた。残ったのは虚しさばかり。
 もういいではないか。恐らくミトスはここに残る道を選択をするだろう。そうなれば自分は真っ先にお払い箱だ。所詮自分は、ミトス達にとっては飽くまでも『人間の仲間』なのであって、『仲間』ではないのだ。事なかれ主義で結構。少しでも長く彼らの傍にいたいと思うならば、今まで通り静かにしているのが一番だ。
 クラトスはそう結論付けたものの、何故か気分は晴れなかった。
 すると…
「あなた、クラトスさんだよね?」
 重苦しい溜め息をついたクラトスの背後から声を掛けてきた者がいた。振り返ってみれば、ミトスと同年齢ぐらいの見知らぬハーフエルフの少年が自分を真っ直ぐに見詰め立っている。だがクラトスにはこの声に聞き覚えがあった。
「もしかして君は私達がこの町に着いた時に…」
「覚えていてくれたんだね。そうだよ。あなたに注意を促したのは僕だよ。」
 クラトスは目を見開いた。

 “あいつが目覚めてしまった。気を付けて!”

 やはりあの声の主はこの少年だったのだ。声から察するに若い男だとは思っていたが、まさかこんな少年だったとは…。
 すると少年は愕然としているクラトスの腕をいきなり掴むと苛々としたように揺すぶってきたのだった。
「覚えていてくれたのなら何故何もしてくれなかったの?あいつは目覚め、あなた達に目を付けた。だから僕はあなた達にこの町を立ち去ってもらいたかったんだ。それなのに…。おかげであいつは行動を起こし始めてしまった。でも今ならまだ間に合う。一緒にいたあの三人を連れてすぐにこの町を発って!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。」
 クラトスは興奮している少年の肩に手を置き落ち着かせると、
「確かに私は君の警告を受けた。だが実の所あの言葉だけでは、君の意図も、『あいつ』の正体も、全く分からなかったのだ。これでは行動を起こせと言われても無理な話だろう。それでもずっと心に留めて来たつもりだ。そして今まで何も起きなかった。」
「違うよ。あなたの気付かないところであいつはすでに行動を起こしているんだ。」
 クラトスはまじまじと少年を見た。

 この少年は頭がおかしいのだろうか?
 いや、しかし…

「…君は何者なのだ?」
「僕の言う事が信じられないんだね。」
「そうではない。これ程の情報を教えてくれる者の名前を知りたいと思うのは当然だろう?…だが言いたくないのならそれでもいい。ただ一つだけ教えて欲しい。『あいつ』とは一体誰の事なのだ?」
「……『あいつ』とは、どこにでもある悲しみや憎しみ、欲望、そんな闇に取り憑かれた哀れな奴の事だよ。」
 暗い表情を浮かべる少年。
「あなたは感じない?平和そうに見えるこの町も、実際は憎悪の念が渦巻いている。そしてそれはいつだって人の心の隙を衝いて取り憑こうと狙っているんだ。」
「……」
「まだ信じられない?それなら見せてあげるよ。この町の闇の部分をさ。」

 そう言ってクラトスの手を引き少年が連れてきた場所は、町の片隅にある高い塀に囲まれた一角であった。開放的な町とは対照的に、何故かここには数人の兵士が立てられており、簡単には中に入れないようになっている。
「こっちだよ。ここからなら兵士に見付からずに入れるんだ。」
 少年はクラトスを裏手にある僅かばかりの植え込みに案内するとそこから中へと忍び込んだ。そして中央にある黒い大きな建物に近付いていく。
「覗いてごらんよ。」
 少年に促され、格子窓から中を覗いたクラトスの目が見開かれる。
 そこは収容所であった。と言ってもここにいるのはハーフエルフではなく人間である。しかもその中には老人や幼子までが混じっており、それら全ての者達が過酷な重労働を強いられていたのだった。
「こ、これは…」
 驚いているクラトスに中の一人一人を指差しながら説明をする少年。
「あのおじいさんはよろめいた拍子に近くにいたハーフエルフにほんの少し肩がぶつかってしまい、ここに連れて来られた。あっちの女性はハーフエルフに道を尋ねられ、答える事が出来なかった。あの子供はハーフエルフの前で泣いていたってただそれだけ。皆日常起こりうるほんの些細な事ばかりで連行されて来てしまったんだよ。こんなのを知ってしまったらハーフエルフじゃなくても人間不信になっちゃうよね。」

 クラトスの脳裏にユアンの言葉が浮かんで来る。

 “あんなもん見ちまったら一日だってこんなところには…”

 そうか。あいつが見たものとはこれの事だったのか。

「この町には大勢の私服の憲兵がうろつき回っている。何かあればすぐ逮捕、ここに連行されて来てしまうんだ。町の人達がハーフエルフに親切なのは好意を持っての事じゃない。ただその憲兵が恐ろしいからに過ぎないんだよ。どう?これでもこの国に未練がある?こんな国、早々に出て行った方がいい。この収容所の事を話せばあなたの仲間達も納得する筈さ。そうでしょう?」
「……何故これを私に見せた?」
「言ったでしょう?僕はあなた達に早くこの国から脱出して欲しいんだよ。」
「君が言う、『あいつ』が狙っているのが私だと言う事なのか?」
「違うよ。『あいつ』が狙うのは自分と同じ闇を持った者だけ。あなたじゃない。」
「それなら何故私に言うんだっ!!」
 思わず声を高くしてしまったクラトスは、ここが収容所の前だった事を思い出し、慌てて辺りを見回した。幸い誰も気付いている様子はなく、クラトスはホッと息をつくと再び声を潜めて話し出す。
「それなら私ではなく、狙われている本人に直接言えばいい。そうだろう?」
「あなたじゃないと駄目なんだ。一度目を付けられたら、自力で『あいつ』から逃れる事は難しいんだ。誰かの助けがいる。それが出来るのはあなただけだから。」
「いい加減にしてくれ!お前の言う事は訳が分からない。」
 くるりと踵を返すと、クラトスはその場から立ち去ろうとする。
「これだけ言ってもまだあなたは動いてくれないの?どうして?あなたは何をそんなに怖がっているの?あなたが、陰でこんな事をしている人達と同じ人間だから?あの仲間のハーフエルフ達に、自分も同じような人間だと思われるのが嫌だから?」
 少年のストレートな言葉にギクリとして立ち止まるクラトス。だが振り返ろうとはしない。
 それでも少年は諦めなかった。その背に向かって言葉を投げかけ続ける。
「あなたの気持ちは分かるよ。でもさっきも言ったようにもう時間がないんだ。『あいつ』が完全に取り憑いてしまってからでは遅いんだよ。その為にあなたは、今ここで自分を縛り付けている楔から解き放たれる必要がある。ねえ、もっと仲間の事を信じてあげなよ。あなたが本当に仲間の事を大切に思っているのなら、例え自分が傷付く事になっても諫言出来る筈だよ。」
 しかしそんな少年の懸命な説得も、クラトスに決意させるまでには至らなかった。
「…君は私を買い被っている。私は君が思う程、強い人間じゃないんだよ。」
 クラトスは呻くようにそう言うと、そのまま歩み去ってしまったのだった。そして少年も、今度は後を追おうとはせず、じっとその背中を見詰めていたのだった。


−つづく−