最後の涙


 デリス・カーラーンにある大いなる実りの間……そこで、ある儀式が行われていた。
 部屋の中央に16歳ぐらいの少女の姿。その面には感情と言うものが全く見られず、まるで人形のようだ。
 少女の近くには儀式を見守る三人の男。クルシスの三大天使、ユグドラシルとユアン、クラトスである。
 しばらくして上空に浮かんでいる大いなる実りと呼ばれるマナの木の種子から、一つの光がゆっくりと降りてきた。光は少女を包み込み、そして徐々に体内に入って行く。
 その途端、感情のない筈の少女に変化が現れた。苦痛に顔を歪め、その口から悲鳴がほとばしる。
「いや ―― っ!やめて ―― っ!!」
 やがて少女は苦しさに胸をかきむしりながら床の上に崩れ落ち、そのまま動かなくなった。
 行き場を失った先程の光は少女から離れ、再び種子へと戻って行く。


「チッ、また失敗か。この役立たずの器が!」
 舌打ちしながら倒れている少女に近付くと、苛々したように蹴飛ばずユグドラシル。少女の体は近くの柱にぶつかると、糸の切れた操り人形のように不自然な姿で横たわった。
 それを見たクラトスは、僅かに眉を顰めると言った。
「…もう諦めた方がよいのではないか?これでもう何人目になる?マナを操作しマーテルの器を作りだすなど最初から無理があったのだ。」
「無理だと?何を言っているのだ、クラトス。無理などではない。その証拠に器は徐々に姉様に近付いてきている。最初など姉様の魂が降りて来さえしなかったのだからね。計画は確実に前進している。それなのに何故やめる必要がある?それともお前は姉様など消えてしまってもいいと言うのか?姉様を見殺しにする気なのか!?」
「そうではない。どんなに操作しマーテルに酷似したマナの持ち主を作りだしたとしても、所詮それはマーテルではなく別個の生命なのだ。その生命を弄ぶなど許されない行為だ。我々は神ではないのだぞ。」
「フッ、何を言い出すのかと思ったら…。違うな。我々は神なのだ。愚かな人間どもを導き、時に鉄槌を下す…強大な力を持つ我々だから出来る事。我々こそがこの星の神なのだよ。」
 熱に浮かされたかのような表情でそう言い切ったユグドラシルを見て、クラトスは目を見開いた。

(狂ってる…)

 もう目の前にいるこの男は昔のミトスとは違う。あの希望に目を輝かせ、夢を追っていたミトスとは…。
 そしてそうさせたのは人間であった。彼らは、この星を、この星に生きる全てのものを必死に守ろうとしていたミトスを裏切り、彼から全てを奪ったのだ。

「そうか……復讐なのか。」
「え?」
 ギラギラとした目を向けてきたユグドラシルに、クラトスは繰り返した。
「これはお前にとって復讐なのだろう?お前を裏切り、マーテルを殺した人間達に対する…」
「黙れっ!!」
「!!」
 突然顔色を変え魔術を放ってきたユグドラシルに、クラトスは咄嗟に防御の姿勢をとるが、その強大な魔力は防ぎ切れず、彼の体は背後にあった壁へと叩きつけられた。
「くっ…」
 痛みを堪え、なんとか起き上がったクラトスを睨み付けるユグドラシル。
「姉様が殺されただと?ふざけた事を言うな!!……姉様は死んでなんかいない。姉様は大いなる実りと共に眠りについているだけなんだ!!」
「……」
「姉様を侮辱した行為、許せるものではないぞ、クラトス。本当ならここで殺してやりたいぐらいだけどね。しかしお前も元は人間だった。同族が苦しめられるのを忍びないと思う気持ちも分からなくもない。それにお前は今まで長い間私や姉様に尽くしてきてくれたからね。今回は特別に許してやろう。だがもう二度と口答えは許さぬ。よいか?このクルシスを統べているのはこの私なのだ。お前達はただ私の言う通りに動いていればいい。分かったな?」
 だがクラトスはそれに答える事をせず、キッと口を結んだままユグドラシルを見返している。
 その反抗的な態度に苛つきを覚えるユグドラシル。
 だが彼は、再びクラトスを痛めつける事はしなかった。その代わりに、先程から何も言わずに二人の様子をぼんやりと眺めているユアンへと矛先を向けたのである。
 彼はユアンを殴りつけると怒鳴り付けた。
「何を他人事のような顔をしているのだ、お前はっ!!今の言葉はクラトスだけに言ったのではない。お前に対しても言っているのだぞ!!」
「!!よせ、ユグドラシル!お前の怒りを買ったのはこの私の筈だ。ユアンは関係ないだろう!」
「確かに“さっき”はな。だが私は前々からこいつの態度が許せなかったのだ。何をやらせても心ここにあらずといった体で、まるでやる気がない。こいつは心の中で私の事を馬鹿にしているんだよ!」
 そう言って倒れているユアンを更に蹴りつけるユグドラシル。
 ユアンは何も言い返さず、されるままにじっと耐えていたのだが、それは逆にユグドラシルの怒りに油を注いでしまったようだった。仕置きはさらにエスカレートし、ユアンは血を吐きながら床の上を転げ回った。
「いい加減にしろ!それ以上やると死んでしまうぞ。」
「邪魔をするな!クラトス。」
 肩で息をしながら、痛みに体を丸め呻き声を上げているユアンを憎らしげに睨み付けるユグドラシル。
「こいつは…こいつはな!姉様を見殺しにしたのだ。婚約者だ、愛しているだなどと言っておきながら、襲われている姉様を助ける事をしなかった。」
「!!それは違う!助けたくても助けられなかったのだ。あの時私達は、デリス・カーラーンを繋ぎとめようとしているお前を暴徒から守るだけで精一杯だった。それでもユアンは必死にマーテルの元へ向かおうとしていたのだ。それはお前も見ていた筈だろう?ユアンを責めるのは筋違いだ。」
「それだけじゃない!こいつは眠りにつく姉様を前に涙一つ流さなかった。それどころか、種子と融合させる事にも反対したのだ。本当に姉様を愛していたなら、姉様を助けるべく力を尽くす筈。結局こいつは姉様を愛してなんかいなかったんだ!姉様を騙していたんだよ!」
「そうじゃない!ユアンは…」
 クラトスは更にユアンを擁護しようとしたのだが、それを止めたのは他ならぬユアン自身であった。
「もういい。やめろ、クラトス。」
「ユアン?」
「もういいのだ。」
 その目は、これ以上何を言っても無駄だと語っており…クラトスは唸り声を上げると口を結んだ。
 それを見て勝ち誇った笑いを上げるユグドラシル。
「ハハハ、そうだよな、何も言える筈がない。全て本当の事だものな、ユアン。」
「……」
「可哀相な姉様…。やはり姉様を理解しているのは私だけなのだ。姉様を救えるのも私だけ。だからもうこれ以上私のする事に口を挟むのは許さない。もしそんな事をしたら、いかに二人でも命はないものとそう思え!」
 ユグドラシルは今一度二人を鋭い目で睨み付けると、怒り治まらぬ様子で床を乱暴に踏み鳴らしながら、大いなる実りの間から出て行ってしまったのだった。

「大丈夫か?ユアン。」
 ユグドラシルが扉の向こうへ消えると、倒れたままのユアンに手を差し伸べるクラトス。
 だがユアンは、余計な気遣いは無用とばかりにその手を振り払うと自力で立ち上がった。
「……」
「何だ、クラトス?何か言いたそうだな。私がお前に加勢しなかったのが不満か?」
「いや…。」
 目を伏せたクラトスを見て、フッと笑いを漏らすユアン。
「嘘をつけ。そうちゃんと顔にかいてある。」
「……」
「だがな、お前には悪いが、ユグドラシルが人間達を痛めつけようが殺そうが、私にとってはどうでもいい事なんだよ。」
「しかしマーテルの事は違うだろう?彼女を種子に融合させる事にはお前も反対していたではないか。」
「それにしたって今となってはもうどうでもいい事だ。」
「何故…」
「何故そんな投げ遣りになってしまったのか…か?フッ、そんなのは決まっている。無理だからだよ。どんなに足掻こうが、今の私達の力ではユグドラシルを屈服させる事などできない。お前とて馬鹿ではない。先程のユグドラシルを見てそう悟った筈だ。」
「しかし!」
「そんなにやつを止めたけりゃ、お前一人でやれ。私はご免だ。大体な、やつにこれだけの力を持たせてしまった一因はお前にあるのだぞ。分かっているのか?……やつの手にエターナルソードがある限り、私達にはどうする事もできん。かと言って契約し直そうにもオリジンは封印されてしまっている。完全に堂々巡りだ。こうなる事は予測できた筈。それなのに何故お前はオリジンの封印に同意したのだ?何もかも滅茶苦茶にしたのはお前だ。お前がマーテルを私の手の届かないところへやってしまったのだ。そんなお前に投げ遣りだと責められる謂れはない!!それともお前が死んでオリジンを解放するか?」
 そこまで一気に言ってしまってから、ユアンはクラトスの顔に浮かんだ表情に気付き、ハッとすると目を伏せた。
「すまない…言いすぎた。これでは八つ当たりだな。」
「いや…。」
「まあ…どちらにしても、私にはユグドラシルに逆らう気などなかった。もうそんな気力がないのだよ。もしかしたらマーテルが死んだあの日、この私自身も共に死んでしまったのかもしれない…。」
 この言葉の最後の方はほとんど呟きに近い小さな声であった。
 ユアンはそのまましばらくの間、憂いを帯びた表情で大いなる実りを見詰めていたが、やがて小さく息を吐くと、柱の傍に横たわったままになっている少女の体を抱え上げながら言った。
「さてユグドラシルも行ってしまった事だし、私も失礼させてもらうよ。どうもこの部屋は好きになれん。マーテルの泣く声が聞こえるような気がして胸が苦しくなるのだ。この遺体も葬らねばならんしな。」
 弱々しい笑みを浮かべ戸口へ向かうユアン。その背中はこれ以上言葉をかけてくる事をはっきりと拒絶しており、クラトスは黙って見送るしかなかったのである。

 いつからこうなってしまったのだろう?
 お互いに罵り合い、傷つけ合い、かと言って相手を切り捨てる事も出来ず、疑心暗鬼になりながらも共にいる…。
 以前の私達はこんなではなかったのに…。

「……君か。」
 上空に浮かぶ大いなる実りを見上げるクラトス。
「君がいなくなってしまったから、我々のある意味微妙な均衡が崩れてしまったのか。」
 思えばマーテルはいつも笑顔で自分達を包み込んでくれていた。どんなに刺々しい雰囲気になろうが、彼女の笑顔がそれを取りなしてくれていたのだ。

 あの時はそれが当たり前だと思っていた。失って初めて気付く。
 彼女の存在の重みに…。
 彼女の笑顔がどれだけ我々の慰めになっていたのかに…。

「愚かだな…。」
 苦笑を浮かべるクラトス。
「今君はそこで、愚かな私達を見て何を思っている?」
 そう問うたところで、もちろんマーテルからの返事はなく…彼女に頼る事はもうできないのだと改めて実感させられる。
 今の状況を変えたければ自分達でなんとかするしかない。
 だがどうしたらいいのか全く分からなかった。
「マーテル…。君だったらこんな時、どうするのだろうな…。」
 クラトスは難しい顔で、いつまでも大いなる実りを見詰め続けていた。




 それから数日たったある日の事。
 クラトスが書類を手にユグドラシルの部屋を訪ねると、彼はテーブルの上に何やら広げ、笑みを浮かべながらそれを眺めていた。
「ユグドラシル?」
「ん?…ああ、クラトスか。どうした?」
「先日頼まれた統計がまとまったので持って来たのだが。」
「ああ、ご苦労。そこに置いておいてくれ。」
「ところでそれは?」
「ああ、これか。今、姉様の私物を整理していたのだ。復活した時にいつでも使えるようにしておこうと思ってね。まあ、と言ってもそんなに数はないのだが…。本やアクセサリー類はこのまま使えそうだな。だが服はどうだろう?新しく作るにしても器によってサイズも違ってくるだろうしね。仕方がない。服は姉様が復活してからにするか。他には……あ、そうそう、部屋も用意しておかないと…。」
 復活した姉の姿を想像しながら楽しげに品物を吟味しているユグドラシルを見て、複雑な表情を浮かべるクラトス。
 次第に居た堪れなくなってきてしまい、書類を置くと逃げるように退出しようとする。
 だがそれをユグドラシルが引き止めた。
 彼は振り返ったクラトスに戸口に置いてある小さな段ボールを指し示すと、
「悪いがそれを処分しておいてくれないか。」
「?…これは?」
「旅の間の姉様の日記だよ。」
「日記!?日記を捨ててしまっていいのか?」
「全部じゃない。初期の頃のはちゃんとこちらに取ってある。」
「初期のって…何故全部取っておかないのだ。」
「何故って見たくないからだよ。」
 その吐き捨てるような一言に大体の察しがついたクラトスは、黙って段ボールを持ちあげた。
 そしてユグドラシルは、退出していくクラトスに向かって更にこう付け加えたのだった。
「ああ、あとそこにはガラクタも入っているから、それも一緒に処分してくれ。二度と私の目に触れぬよう粉々にしてね。」


 自室に戻るとクラトスは、先程浮かんだ推測が正しいかを確かめる為、すぐに日記の内容を確認した。
「やはり…。」
 そこには思った通り、マーテルのユアンへの想いがページいっぱいに綴られていた。
 恐らくユグドラシルもこれに目を通したのだろう。その上で彼はこれをゴミとして扱った。それはユグドラシルとユアンの確執が彼の考えていたものよりずっと深い事を現しており、クラトスは頭を抱えた。
 実は彼は、ユグドラシルの暴走を止めるには三人の関係の回復が一番の早道だと考えていたのである。
 だがそれもこうなると、もはや絶望的となってしまった。かと言って他によい方法を簡単に思い付ける筈もなく…このままうだうだと考えていても仕方がないと思ったクラトスは、とりあえず箱の中身を全て確認する事にしたのだった。

 箱の中には日記帳の他にユアンからの手紙の束や二人で撮った写真なども放り込まれており、それら一つ一つをやるせない思いで取り出していたクラトスは、ふと底の方にきらりと光る物を認め訝しげに眉をひそめた。
 取り出してみると、それはシンプルな銀色の指輪だった。
 これには見覚えがある。ユアンがプロポーズした時にマーテルに贈った指輪だ。あの時はどことなく曇ったみすぼらしい指輪だったものが、今はこうしてキラキラと光りを放っているところをみると、きっとマーテルがユアンとの小さな幸せを夢見て毎日大切に磨いていたに違いない。戦いの中に身を置いていても、彼女は、どこにでもいる普通の少女達となんら変わりはなかったのだ。

 ここにある物全てに、彼女の夢や希望が詰まっている。
 これは彼女が生きていたという証…。

「ユグドラシルよ…。お前はこれを処分しろと言うのか?」
 目を閉じ考え込むクラトス。
 大いなる実りの間で、種子を悲しげに見上げていたユアンの姿が浮かんでくる。
 今のユアンは空っぽなのだ。愛する者を守れなかった後悔に苛まれ、自分を見失ってしまった。
「それでもお前は生きている……生きているんだよ、ユアン。」
 もしもこれを渡したら、ユアンは再び自分を取り戻す事ができるだろうか?
 だが、そうしたら恐らく彼は…。

“それともお前が死んでオリジンを解放するか?”

 それは関係の修復どころか、完全な敵対を意味していた。そして意識だけ残しているマーテルを更なる悲しみの淵へと追いやる事になるだろう。
「……それでも私は…」
 辛そうにギュッと拳を握りしめるクラトス。
「すまない、マーテル。だがもう他に方法がないのだ。」

 生きている限りは、人は時を刻み続けなくてはならない。
 動かなければ何も始まらないのだ。
 たとえその先に何が待っていようとも…。

 クラトスは目を開けると、決意の表情で立ち上がったのだった。



 その頃ユアンはと言えば、自室へと続く廊下をフラフラと歩いていた。
 ここに来るまで何度、意思のない天使とぶつかった事だろう。以前なら弾き飛ばしていたそれに、今の自分は逆に弾き飛ばされてしまい、その度に壁や床に体を打ち付けてきた。
 我ながら情けないと思う。ユグドラシルやクラトスが苛つくのも尤もなのだ。
 今の自分はあの天使達と同じ…。
 何も考えず、何の感情も持たず、毎日ただ言われた事だけをこなしてゆく。
 これならいっそ死んでしまった方が楽なのではないかと自殺を試みた事もあったが、それも未遂に終わり…。しかも絆創膏を貼りつければ済む程度しか傷付けられなかったという情けなさ。
「あ〜あ。何故私はこうも根性無しなのだろう…。」
 ユアンは肩を落とすと自室のドアを開けた。
 すると…。
「?…何だ、ありゃ?」
 机の上に見慣れぬ段ボールが載っている。
「爆弾じゃねえだろうな。開けた途端ドカ〜ンなんて冗談じゃないぞ。」
 自殺願望者らしからぬ言葉を呟きながら箱に近付き恐る恐る開けてみるユアン。
「!!これは!」
 中に入っていたのはマーテルの日記帳だった。昔、何を書いているのか気になって何度か覗こうとしたからよく覚えている。その度に彼女は『駄目よ、秘密なんだから。』と、笑いながら閉じてしまったものだった。
「マーテル…。」
 ユアンは震える手で日記を取り出すと読み始めた。
 マーテルらしい小さな可愛らしい字で綴られたそれには、彼女の夢や希望、そして自分に対する彼女の想いが溢れており、ユアンは自分の中に何か懐かしいものが込み上げてくるのを感じていた。
 そして何冊目かの日記を手に取った時、それは起こったのだった。

 ポタリ…。

「!?」
 ユアンが持つ日記帳の上に突如水滴が落ちたのである。それは一滴に止まらず、いくつもいくつも落ちてきては表紙を濡らし文字を滲ませていく。
 ふと自分の頬へと手をやるユアン。その指先が濡れているのを目にし、初めてそれが涙だと気付いた。
「馬鹿な!」
 こんなものがまだ自分の中に残っていた事が信じられなかった。
 マーテルが死んだ時にはただの一滴も流すことができなかったというのに…。

“人って本当に悲しい時には涙が出ないものなのね。泣く事さえできれば少しは心が軽くなるでしょうに…。”

 以前、どこかの廃墟と化した街の前でマーテルが呟いた言葉が脳裏に蘇ってくる。

“とにかく前に進みましょう。少しずつでもいいから前へ…。この悲しみを忘れずに進んで行く事が私達の涙の代わり…。それが死んでいった人達への供養にもなると思うの。ね、ユアン。”

 その言葉の通り、彼女はいつだって歩みを止める事なく進み続けていた。笑顔を絶やさず、しっかりと前を見詰めて…。

「それなのに私は……私は一体何をやっているのだっ!!」
 ガクリと膝を突き、日記を胸に押し抱くユアン。
「……すまない、マーテル。すまない…。」
 その目から溢れ出る涙は止まる事を知らず、そんなユアンの膝元をいつまでも濡らし続けていた。



 翌日大いなる実りの間にて、種子に語りかけているユアンの姿があった。
「マーテル。私がここに来るのもこれが最後だ。だが決して君の事を忘れるわけじゃないから。私はどんな事をしても、必ずや君を解放してみせる。あのミトス・ユグドラシルという呪縛からな。だからそれまで私を信じて待っていてくれ。それじゃあな。」
 最後に種子に向かって優しい微笑みを浮かべると、踵を返すユアン。
 その目にもう迷いは見られなかった。

 君を救う為なら、この手を血で染める事も厭わない。
 もう二度と涙を流す事もないだろう。
 この悲願が成就するその日まで、私は鬼になる。

 部屋から出たユアンはしっかりとした足取りで歩き始める。
 程なくして向こうからクラトスがやってくるのが見えた。
 すれ違う二人…。

「礼は言わんぞ。」
「何の事だ?」

 短い会話の後、二人の顔に一瞬笑みが浮かぶ。
 そして二人はそのまま振り返る事なく、それぞれの方向へと歩み去って行ったのだった。


−最後の涙 終−