2.一筋の希望


 ここはデリス・カーランの最奥にある謁見の間。ここでこの星を統べる最高指導者たるミトス・ユグドラシルが怒り狂っていた。その怒りに震えるマナの力は凄まじく、その場に同席していた無機生命体である天使達の体を次々に掻き消していく。その惨状を前に、この怒りの元凶であるクヴァルは、ただただ身を竦めていた。

 (だから言わんこっちゃない…。)

 ユアンは部屋の隅に立ち、そんなクヴァルの様子を冷めた目で眺めながら心の中で呟いた。
 これは自業自得だ。本来クラトスの力はあんなものではない。その力にはユグドラシルさえも一目置いている程なのだ。奴が本気になればあんな牧場の一つや二つ、影も形もないほどに叩き潰すなどわけがない事だっただろう。牧場の被害があれだけで済んだのは、偏にクラトスが未だユグドラシルに忠誠心を残していたからに他ならない。クヴァルはクラトスの力を過小評価していた。その結果、踏んではいけない地雷を踏んでしまったのだ。己の野心を満たしたいという、ただそれだけの為に。
「お、お許し下さい、ユグドラシル様。よもやあの男が…い、いえ、あのお方が大天使クラトス様だとは思いもよらず…」
 ユグドラシルは冷たい目で平伏すクヴァルを見た。
「そんな筈はあるまい?牧場が襲撃された時、クラトスの姿をお前はその目で見ている筈だ。それにも拘らず、お前はそれを隠そうとした。その場にいたユアンにも単なる研究上の事故だと言ったそうではないか。そうだったな?ユアン。」
「御意…。」
 ユアンの返答に、クヴァルは目を見開いた。そんなクヴァルに、ユグドラシルは更に言葉を継いだ。
「クラトスの行方を掴めていたのなら、何故直ぐに報告しなかった?お前一人で奴を捕まえられるとでも思っていたのか!?」
「め、滅相もございません。私ごときが四大天使様に敵うはずもなく、ましてや捕まえようなどと大それた事を考えるわけがございません。私にとりまして今回の事はまさに青天の霹靂でありまして、まさかあの被検体がクラトス様に関係しているとは…。そうでございましょう?大天使たるお方が劣悪種などに関わりを持たれるなどとは誰も考えますまい。」
 如何にお気に入りとはいえ、所詮は元劣悪種。ユグドラシルにとってクラトスの存在は単に物珍しい玩具程度のものだろうと考えていたクヴァルは、主の怒りをその玩具の裏切りへと逸らすべくそう発言したのだが、この言葉は却ってユグドラシルの怒りに油を注ぐ結果となってしまったようだった。その事はジロリと自分を睨みつけてきたユグドラシルの殺気さえこもった視線に如実に表れており、そこに至って初めてクヴァルは自分の計算違いに気付いたのだった。だが、その時には遅すぎた。一度口から出てしまった言葉はもう取り消しようがなく、ユグドラシルは静かな、だからこそ余計に怒りを感じさせるような声でクヴァルに言い渡したのだった。
「もうよい。お前はエクスフィアの研究だけを進め、他の事には手を出すな。今回の事は忘れるのだ。他言も無用。分かったな?…それと、今後二度と私の前でクラトスを軽んじる発言は控える事だ。彼はお前とは違う。その事を肝に銘じておけ。命が惜しいのならばな。」
 だがクヴァルとて、ここで引くわけにはいかなかった。このまま劣悪種にしてやられたままでは立場がない。クヴァルにもプライドと言うものがあったのだ。
「恐れながら、そうは参りませぬ。クラトス様が連れ去った女は、長年かけて私がようやく見付ける事が出来たエンジェルスエクスフィアの培養体なのです。研究を進めて行く上でもなんとしても取り戻さねばなりません。ですからどうかあの二人の行方を追うお許しを頂きたく、お願い申し上げます。」
 そう言ってひたすら頭を下げるクヴァルを、ユグドラシルはしばし眺めていたが、やがて溜息をつくと、
「……好きにするが良い。ただし、その女は煮ようが焼こうが構わぬがクラトスだけは殺すな。それだけはきつく言い渡しておく。」
「ははーっ、畏まりましてございます。お許し有難うございます。このクヴァル、命に代えましても必ずやエクスフィアを完成させてご覧にいれましょうぞ。」
 再び平伏し退出して行くクヴァル。それを見送った後、ユアンが言った。
「何故手を引かせなかった?奴の事だ。何だかんだ理由を付けてクラトスまでも始末しかねんぞ。」
「無用な心配だよ、ユアン。あのクラトスがクヴァルごときに後れを取ると思うのか?クヴァルにクラトスを殺す事など出来んさ。その反対はあったとしてもね。エンジェルスエクスフィアは我々にとって必要なものだ。その完成を成し遂げる為にはクヴァルの存在もまた然り。だから敢えて奴の命を取る事はしなかった。私は利用できる内はとことん利用する主義なのだよ。」
 もはやこの冷酷な指導者は、誰も信じてはいないのだ。己の手足とするべく結成させた五聖刃達すらも、彼にとっては道具でしかないのだろう。

 (ならば自分はどうなのだろう?クラトスは?)

 ふと頭をよぎった疑問を、ユアンはすぐさま振り払った。そんな事を考える資格など自分にはない。何故ならすでに自分はこのユグドラシルを…。
 ユアンがそんな事を考えていると知ってか知らずか、ユグドラシルはギラギラとした目で彼を見据えると、
「クラトスの為にもこの件は早く片を付けた方が良いだろう。だから私の方からも天使達を追っ手として差し向けるつもりだ。」
「天使?…しかしクヴァルでさえ無理なものを、意思を持たない天使では尚更…」
「無理だろうな。だがそれでいいのだ。クラトスに、私が未だ彼を切り捨ててはいないのだという事を分からせるだけでいい。クラトスは薄汚い人間の女に騙されているだけなのだ。そうでなければクラトスが私を裏切るはずがない。そうだろう、ユアン?」
「……」
「人間の寿命は短い。ましてやその女にはエクスフィアが寄生しているのだから長く生きられよう筈もない。女さえいなくなればクラトスは戻って来るだろうから、こちらから特に手を出す必要もないとは思うが、万が一という事もある。そうだな…その時は私自らが出向いて行き、私の手でその女を捻り殺してやるのもまた一興かもしれんな。」
 その光景を頭に浮かべ高笑いを繰り返すユグドラシル。ユアンはこれ以上この狂気の狭間にいる上司の姿を見る事に耐えられず、頭を下げ一礼すると、謁見の間を後にしたのだった。

 「ユアン様…」
 部屋を出てきたユアンは、物陰から声を掛けられ、足を止めると振り返った。見るとそこにはもう当の昔に研究所に戻ったとばかりに思っていたクヴァルが立っていた。
「…なんだ。まだいたのか。」
「一言申し上げたい事がありましてな。……あなたはとんだ大嘘吐きだ。」
「それはまた、とんだご挨拶だな。」
「だってそうでございましょう?あなたはユグドラシル様の前で牧場にクラトスがいた事には気付かなかったと仰られた。そして全ての罪を私に被せたではありませんか。」
「罪を被せた?…これは異な事を言う。私は事実を述べたまでの事。お前がクラトスの存在に気付きながら報告しなかったのも、私に事故だと偽ったのも、いずれも本当の事ではないか。」
「いや、あなたがあの男のマナに気付かぬ筈がない。もしかしたら私の所へ面会に訪れた時点で、もうすでに彼がやって来ている事に気付いていたのではありませんか。」
「推測のみで逆恨みするのは止めてもらいたいな。」
 ユアンは吐き捨てるようにそう言うと、クヴァルに背を向けその場を立ち去ろうとした。
「素直にお認めになった方があなたの為ですよ、ユアン様。私はあなたのやっている事を知っているのですから。」
「私がやっている事?」
「レネゲード…と言えばお分かりかと。」
 クヴァルはニヤリと笑ったが、ユアンの表情は変わらなかった。
「それで私を脅しているつもりなのか?フ…笑わせてくれる。」
「!!…いいのですか?わ、私がこの事をユグドラシル様に報告したら、あなたとてただでは済まないでしょう。」
「報告したければするがいい。私は否定するまでの事。果たしてユグドラシル様はどちらの言う事を信じるかな?」
「……」
「お前は自分の立場が分かっていないようだな。今現在ケツに火が付いているのは私ではない。お前なんだよ。そんな埒もない事を言っている暇があったら自分に降りかかった火の粉を払う事に専念するのだな。」
 ユアンは冷たい目で、悔しそうに唇をかむクヴァルを見た。
「ついでに忠告しておこう。四大天使を甘く見ない事だ。我々はお前などには想像出来ない修羅場をいくつも潜り抜け、尚且つ生き残って来た。お前とは器の大きさからして違うのだ。そして、お前がたかが劣悪種と馬鹿にしているクラトスもまたそんな四大天使の一人なのだよ。お前はやつを敵に回すべきではなかった。結局お前は己の野心の為に火のついた巨大な爆弾を背負い込む事になったのだ。」
「それでも…」
 クヴァルはユアンの睨みつけながら言った。
「それでも私は諦めませんよ。これは私にとってやっとの事で訪れた千載一遇のチャンスなのです。確かに危険かもしれませんが、なあに、そんなものは私のこの頭で見事切り抜けて見せますとも。」
「そうまでして四大天使の座につきたいか?それとも我々に取って代わろうとしているのか?…いずれにしても愚かな事だ。愚かな望みは身の破滅を招く事になる。これは前にも言った事だが、精々自爆せぬよう気を付けるのだな。」
 これ以上話す事はないと、背を向け歩き始めるユアン。クヴァルはその背に向かって恭しく一礼しながらこう言ったのだった。
「ええ、気を付けると致しましょう。あなたの忠告は肝に銘じておきますよ、大天使ユアン殿。」
 その目は言葉とは裏腹に酷く挑戦的な光を湛えていた。

 (ちっ…野心に凝り固まったクズが!)

 心の中で毒づくユアン。
 だが、本当にクズなのは斯く言う己自身かもしれない。表向きはユグドラシルやクラトスの身を案じ彼等の支えにならんと尽くす良き仲間。しかしその一方で彼等を裏切る行為を平然と行っている。危険な爆弾を背負い込んでいるのはむしろ自分の方なのだ。
「だが、もう後戻りは出来ない…」
 ぽつりと呟くと、ユアンは決意の表情で前を見据え、デリス・カーランを後にしたのだった。

 それからユグドラシル、そしてクヴァルの手によって、大規模なクラトス達の捜索がなされたのであったが、差し向けられた追っ手は誰一人として戻ってくる事はなく、二人を捕まえられぬまま数か月が過ぎて行ったのであった。


 さて、そのクラトス達はといえば、差し向けられた多くの追っ手達を退け躱しつつシルヴァラントのとある町に辿り着いていた。
「アンナ、なんだか元気がないな。顔色も優れぬようだし、大丈夫か?」
「え?…ええ、私なら大丈夫よ。」
「ここのところ野宿が続いたから疲れたのかもしれんな。そうだな…ひとまず追っ手は撒く事が出来たようだし、しばらくはこの辺りに滞在するとしよう。近くに空き家がないかどうか訪ねてくるからここで待っていてくれ。」
「…ええ。」
 忙しなく歩いて行くクラトスを見送ると、アンナは近くのベンチに腰を下ろした。体調が優れないのは事実だった。だがアンナが意気消沈しているのには別の理由があったのだった。
 二人が旅立ってから数か月。追っ手は日に日に数を増していた。その相手をするのはいつだってクラトスであり、そしてノイシュだった。そんな二人を、アンナはいつも後ろから見守っているしかなかったのだった。

 (自分も戦う事が出来たら…。)

 アンナはいつもそう思う。しかしアンナは武器を持って戦った事がなく、また術も使えないので後方から援護する事も出来ない。だからこそ戦闘の度にアンナは考えてしまうのだ。

 (自分は本当にここにいていいのだろうか?)

 溜息をつきながらぼんやりと広場の方へ目をやったアンナは、そこに一組の若夫婦の姿を認めた。夫婦の傍にはまだよちよち歩きの幼子もいる。我が子の一挙手一投足に喜び楽しそうな笑い声を上げている夫婦。そこにはアンナが常日頃から抱いている理想の家族の姿があった。
「私達は…」
 三人の姿を眺めていたアンナの口からふと言葉が漏れた。

 私とクラトスの関係って何なのだろう?夫婦?恋人?…いえ、そのどちらでもないような気がする。夫婦も恋人も共に助け合うもの。けれども私はただ彼に守られているだけ…私からは彼に何もしてあげていない。
 それなら何故私達は一緒にいるのだろう。一緒にいる意味なんてあるのだろうか?

「アンナ、ぼんやりとしてどうした?気分でも悪いのか?」
 ずるずると自己嫌悪に陥っていたアンナは、突然声をかけられ驚いて顔を上げた。いつの間にかクラトスが戻ってきており、心配そうに覗きこんでいる。
「え…い、いえ、何でもないの。ちょっと考え事をしていたものだから。」
 アンナが見ていたものを確認すべく広場へと目をやったクラトスの目があの親子連れの上に止まった。クラトスの視線が親子連れとアンナの間を往復する。
「あの親子連れが何か?…知り合いか?」
「あ…ち、違うの。ただ微笑ましいなあと思って見ていただけ。お父さんがいて、お母さんがいて、二人の愛情に包まれた可愛らしい子供がいて…ああいうのっていいなあって。私も母親になったら、あんな風に愛おしくて堪らないといったような目で我が子の事を見るのかな。」
「……アンナ、今のお前は普通の体ではないのだ。子供は…」
 難しい顔をして考え込んでしまったクラトスを見て、アンナは慌てた。
「や、やだ…そんなに深く考えないでよ。これは仮の話よ。単なる譬え話なんだから。心配しないで。今の私には母親になるのは無理だってちゃんと分かっているから。それよりも家の方はどうだったの?借りられたの?」
「ああ…。町の外になってしまうのだが、この少し先に昔旅人用にと建てられた小屋があるらしい。今は殆ど使用されていないから自由に使って構わないとの事だった。」
「そう、よかったわ。じゃあ早速見に行きましょう。どんな家か楽しみね。」
 ニッコリと笑って、歩き始めるアンナ。その殊更に明るく振る舞っている姿を見て、クラトスは心の中で詫びていた。
 恐らく今の話は譬え話などではなく彼女の抱いている夢そのものだったのだろう。女性なら必ず一度は描くであろう母親になるという夢…。自分は、そんなささやかな夢を見る事さえもアンナから奪ってしまったのだ。それが償いたくて、そんな彼女を救いたくて、自分は彼女を連れてきた。それなのにどうだ?彼女を救う事が出来る唯一の手段である要の紋…それが作れるドワーフを未だ探し出せていない。いや、探すどころか追手から逃れる事で精一杯という有様なのだ。
 もしかしたら、アンナをこの旅に連れてきたのは間違いだったのではないか?彼女は安全な地へと逃がし、自分一人で旅立つ事も出来たはずだ。そうすれば彼女にこの過酷な旅を強いる事はなかっただろう。結局自分は彼女を苦しめてしまっている…。

 そう、アンナだけではなくクラトスもまた迷っていたのだった。
 追っ手から逃れながらの過酷な旅は、旅立つ時には二人の胸にあれほどに輝いていた希望の光を、いつの間にか消し去ってしまっていたのである。今二人は長く暗いトンネルの中にいた。


 そんな不安を抱えながらも、小屋を借りての二人の新生活は始められた。クラトスは町で人足の仕事に付き、毎日この小屋から通う事にした。慣れている傭兵の仕事もあるにはあったのだが、アンナの体調の事を考えると、遠出の多い傭兵よりは毎日帰って来れる人足仕事の方がよいと考えたのだ。そしてクラトスが仕事に行っている間、アンナは自宅にて家事に専念するという生活が続いていた。
 そんなある日の事だった。いつものように仕事に出る支度を整え居間へと行ったクラトスは、テーブルに突っ伏すようにしているアンナの姿を目にしたのだった。驚き駆け寄るクラトス。アンナは顔を上げると弱々しく微笑んで見せた。
「心配しないで。ちょっと気持ちが悪かっただけだから…。もうだいぶ治まったから大丈夫よ。」
「だがまだ顔色が悪いぞ。念のため医者に診てもらった方がいいかもしれん。どうせ私も仕事で町に行くのだ。医者までお前を送って行く事も出来る。ノイシュに乗って行けば歩かずに済むしな。」
「そんな…大袈裟よ。一日寝ていれば良くなるわ。」
「だが万が一という事がある。それにお前には…」
 エクスフィアがある、と言おうとして言い淀んだクラトスに、アンナは優しく微笑むと、
「そうね。一応診てもらった方がいいかもしれないわ。大した事がなければそれで良し…その方があなたも安心出来るだろうし。」
 こうしてアンナは、もう気分は良くなっていたものの、酷く心配気なクラトスを安心させる為にも一応彼の勧めに従い町の医師に診てもらう事にしたのだった。

 医院の前までやって来てもまだクラトスは心配そうであった。
「一人で大丈夫か?今日は仕事を休んでもいいのだが…」
「子供じゃないんだから大丈夫よ。町の外にノイシュを待たせてあるし、終わったらノイシュに乗って帰ればいい訳でしょう。こんな事ぐらいで大切なお仕事を休む必要なんてないわ。」
「そうか?……だが、帰り道はくれぐれも気を付けてくれよ。私も今日はなるべく早く帰る様にするからな。」
「ええ大丈夫よ、そんなに心配しないでお仕事頑張って来てね。今夜はあなたが好きなお料理をこさえて待っているから。」
 クラトスはまだ心配そうな様子であったが、アンナの笑顔に押されるようにして渋々ながら仕事に出かけて行った。アンナはそんな彼を、その姿が角の向こうへと消えるまで見送ると、医院の扉を開け中へと入って行ったのだった。


 その日の夕方、クラトスはアンナに言った通り仕事を早めに切り上げ、家路に着くべく急ぎ足で町の出口へと向かっていた。そんな彼に声をかけてきた者がいた。
「クラトスさんじゃないかい?」
「あ…あなたは確か…」
 それは今朝方アンナを送って行った医院に勤めている看護師長であった。この町には医院が一つしかなく、クラトスは以前仕事仲間の人足が怪我をした際付き添って行った事があった為、彼女とも顔見知りだったのである。
「今朝一番に診察に来た女性、彼女はあんたの奥さんなんだってねぇ?」
「え?…い、いや…私と彼女はそんな…まだ結婚したわけでもないし…」
「何をゴシャゴシャ言っているんだい。もしかして照れているのかい?以前あんたと奥さんが仲睦まじく一緒に買い物をしている姿を八百屋が覚えていて教えてくれたんだよ。この町のモンは人はいいけど皆口が軽いのばかりだからね、隠そうたって無駄だよ。」
「別に隠そうとかいうつもりは……」
 まだぼそぼそと口ごもっているクラトスの肩を、師長は豪快に笑いながらバシバシと叩いた。
「それよりも、良かったじゃないか。おめでとう!!」

 良かった?…アンナの病気は大した事はなかったと言う事か?
 しかし、それで『おめでとう』というのは如何なものか。確かにめでたい事には違いないのだが…。

 ぼんやりとそんな事を考えていたクラトスの表情は、師長の次の一言で驚愕へと変わった。
「あんたももうすぐ父親だね。」
「えっ、父親!?」
「なあに、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているんだい。もしかしてまだ聞いてなかったのかい?奥さんは妊娠していたんだよ。」
「……」
「なんだい?なんだかあまり嬉しそうじゃないね。」
「いや、そんな事は…」
「とにかくさ、早く帰っておやりよ。奥さんにとって初めての事だし、喜びの一方で不安な事も沢山あるだろう。あんたがさ、しっかりと支えてあげなくちゃ駄目だよ。」

 アンナが妊娠?
 私が父親?……父親…。

 クラトスの頭は混乱してしまっていた。
 正直、クラトスには今回の懐妊を諸手を挙げて喜ぶ事は出来ないでいた。アンナの体はエクスフィアの侵食によって弱ってきている。そんな時に出産などすれば命にかかわる事になるだろう。この世界では中絶という考えはなく、子供が出来れば母親はその新しい命をこの世に産み出す…それが当り前の事なのであった。たとえ母親がそれに耐えられない体だとしても御多聞に洩れる事はなかったのである。
 しかしクラトスはアンナを失いたくはなかった。だから今も、どうすればアンナに危険な出産をさせずに済むものか、そればかりを考えていたのである。だが、アンナは…アンナ自身はどう思っているのだろう。

 “私も母親になったら、あんな風に愛おしくて堪らないといったような目で我が子の事を見るのかな。”

 あの言葉を言った時に、アンナは本当に幸せそうに瞳を輝かせていた。

 もし彼女が、危険を承知でそれでも産みたいといったら、その時私は……私はなんと答えたら良いのだろう。
 今のクラトスにはその答えを出す事は出来なかった。だが、とにかくアンナに会わなくてはならない。会って彼女の意思を確かめなければ…。

 クラトスは師長に頭を下げると、アンナの待つ我が家へ向かって走り出したのだった。

 家の近くまで帰りついた時、クラトスは異変に気付いた。もう辺りは暗くなっているというのに、家の明かりがついていないのだ。
「アンナ?…いないのか?」
 訝しげに扉を開けると電気を付けるクラトス。
 居間のソファーの上にアンナのコートとバックが投げ出してある。
 してみると、アンナは一度はここに戻ってきたようだ。だが、肝心のアンナの姿がない。
「こんな遅くに一体どこへ…」
 すると表の方からノイシュがけたたましく吠える声が聞こえてきたのだった。慌てて外へ出て見ると、ノイシュは姿を現したクラトスに何かを訴えるかのように再び吠えまくったのだった。
「アンナがどこにいるのか知っているのだな?…よし、案内してくれ。」
 クラトスは家からアンナのコートを取って来ると、ひらりと背に飛び乗った。それと同時にノイシュは一声吠えると、勢いよく走り出したのだった。

 アンナは自宅から少し離れた所にある林の中にいた。両膝を抱えて蹲っており、その体は何故か傷だらけだった。
「アンナ!?」
 すぐさま駆け寄り回復魔法をかけると持ってきたコートをかけてやるクラトス。アンナはぼんやりとした目でクラトスを見上げた。
「……クラトス?」
「一体どうしたというのだ?こんな傷だらけになって…魔物に襲われたのか?」
 クラトスを見詰めるアンナの瞳から大粒の涙が溢れ出す。次の瞬間、アンナはクラトスの胸に縋り付くと大声で泣き出したのだった。
「ごめんなさい、クラトス。こんなつもりはなかったの。私…私…子供を…。」
「落ち着くんだ、アンナ。その事なら師長さんから聞いて知っている。それで何故お前はこんな所に?何故怪我をしているのだ?」
「……流そうと思ったの。」
「えっ?」
「お腹の子を流してしまおうと思ったのよ!!」
 目を見開くクラトス。
「だって、それしか方法がないじゃない!私だけでも足手纏いだというのにその上子供まで…。あなたのお荷物をこれ以上増やしたくなかったのよ。」

 (お荷物?まさか、そんな…自分はアンナの事をそんな風に思った事などないというのに。)

 そう思う一方で、もう一人の自分が囁く声が聞こえてくる。

 (本当に?ただの一度も思った事がないと?お前は本当にそう言い切れるのか?)

 クラトスは泣きじゃくっているアンナを見詰めた。
 もしかしたら自分は知らず知らずの内に疲れを覚え始めていたのかもしれない。この果てしない逃亡生活に…。そんな私の気持ちを、彼女は敏感に感じ取ってしまった。うまく事が運ばないという苛立ちを私が抑える事が出来なかったばかりに、彼女の心をここまで傷つけてしまったのだ。
「アンナ……」
 アンナはクラトスの胸の中で叫び続けていた。
「私があなたの足手纏いでしかないって事は分かっていたわ。子供が出来たなんて知ったら、きっとあなたは私を置いて行ってしまう…そう思った。私はあなたから離れたくなかったの。子供さえいなくなれば…そう思ったわ。だから殺そうとしたの。わざと転んだり、坂を落ちてみたり、木にぶつかったりして…。でもうまく出来なかった。その内に声が聞こえてきたの。『殺さないで…お母さん、僕を殺さないで』って。この子は自分を殺そうとしている私をお母さんって呼んだのよ!!」
 アンナはクラトスにしがみ付いた。
「怖かった…私は自分がやろうとした残酷な仕打ちに愕然としたわ。もうこれ以上私には出来ないって思った。ごめんなさい、クラトス。私とこの子の存在があなたを今以上に苦しめてしまう事は分かってる。でも、生きようと頑張っているこの子の命を奪う事なんて私には出来ない。私ね、ふと思ったの。もしかしたらこの子は暗闇の中、彷徨い苦しんでいる私達に差し込んできた一筋の希望の光なんじゃないかって。」
「…希望…」
「私、産みたい。あなたと私の命の結晶であるこの子をこの世に迎えたい。」
「……」
「危険な事は分かっている。でも、たとえ私は死ぬ事になってもこの子だけは…」
「アンナ!!」
 クラトスの大声に、アンナはピクリと体を震わせた。
「そんな気持ちでいるのなら、私は許す事など出来ん。」
「クラトス?」
「何故、この子を産んで尚且つ自分も生き延びてみせると言えんのだ?確かにこの子は希望の光かもしれん。だがそれは『私達』の光なのだ。二人揃って迎えてやらなければ、この子が生まれてくる意味がないではないか。死なせない…お前もこの子も、私が守り抜いてみせる!」
「…いいの?この子を産む事を許してくれるの?」
「お前はそうしたいのだろう?それにその子は私の子でもあるのだから。だが、約束してくれ。もう二度と自分の命に代えてなどと言わぬと。私はお前も失いたくはないのだ。」
「有難う、クラトス……ええ、約束するわ。私も死なない。無事にこの子を産んでみせる。」
 アンナは涙に濡れた目でクラトスを見上げながら、何度も何度も頷いたのだった。


 それから二人は手をつないで林の奥へと向かっていた。クラトスがどうしても行きたい所があると言ったのだ。
「ねえ、どこに行くの?」
「もうすぐだ…ほら、見えてきた。」
 二人は林の中の一角にある開けた場所に出て来ていた。そこにある一つの建物…。
「これは…教会?」
 クラトスは頷いてみせるとアンナの手を引きその中へ入って行った。
「以前、偶然に見付けたのだ。今は誰も使っておらず朽ち果てかけてはいるが、教会には違いない。」
 アンナの手を引き祭壇の前へと進んで行くクラトス。
「お前はさっき、自分がお荷物だと言ったな。正直、私がそう思わなかったと言えば嘘になるかもしれん。」
「……」
「確かにお前は戦う事は出来ん。足手纏いだろうと言われればそうなのかもしれない。だが、これだけは言える。そんなお前でも、私にとっては唯一の心の支えなのだ。お前がいるから戦える。守るべきお前という存在があるからこそ、私は前へと進んでいけるのだ。」
「!!」
「愛しているアンナ…ずっと共に歩んで行きたいと思っている。そんな思いを改めてここで誓いたい。これは私達の結婚式だ。今、ここには神父も指輪もない。そんな何もない二人だけの結婚式ではあるが、それでもいいだろうか?」
 アンナは驚いたようにクラトスを見詰めていたが、やがて穏やかな微笑みを浮かべるとクラトスの胸の中に飛び込んで行った。
「もちろんよ。何もなくたってあなたさえいればそれでいい。これはどんな結婚式より素晴らしい、世界一の結婚式だわ!」
 そして二人は、深く長い誓いの口付けを交わしたのだった。

 (アンナとこの子は、私が必ず守り抜く。その為に私は…。)

 柔らかいアンナの髪の毛を撫でながら、この時クラトスはある決意を固めていたのである。


−一筋の希望 終−