幸せ
「気持いい風…」
アンナは、長くサラサラとした髪を潮風になびかせながら私を見てニッコリと笑った。その眩しい位の笑顔につられて私も微笑を浮かべる。
私達はその日、アンナとロイドにねだられ海に遊びに来ていた。
「ロイドったら、疲れて眠ってしまったわね。」
彼女は、傍らで満足そうな笑みを浮かべノイシュに寄り添うようにして眠っている息子へと視線を移すと、その髪を愛おしそうに撫でた。
生まれて初めての海は、ロイドにとって驚きの連続だったようだ。最初こそ真っ白な砂浜をおっかなびっくりと歩きながら寄せる波を怖がり大声で泣いていたものの、それもすぐに慣れてそれからはアンナやノイシュと一緒にはしゃぎ回っていた。
「なにしろ初めての海で、泣いたり笑ったりと忙しかったからな。お前もずっと付き合わされて疲れたのではないか。」
「いいえ。とても楽しかったわ。海なんて本当に久し振り。子供の頃に両親に連れて来てもらった以来だから、もう十年近く来た事がなかったんですもの。我儘を聞いて連れて来てくれて有難う、クラトス。私ね、初めて海を見た時の感動は今でもはっきりと覚えている。それと同じ感動をロイドにも伝えたかったの。」
「そうか。」
息子を見詰める彼女は、もうすっかり母親の顔になっていた。
三年前にアンナが身籠った事を知った時、私は産むのを反対した。彼女の体は、ただでさえ、左手に埋め込まれた石によって少しずつ、確実に弱ってきている。それなのに子供を産んだりしたら、それは死に繋がりかねない。私はこれ以上彼女に負担を与えたくなかったのだ。だがアンナは堕ろす事を頑強に拒絶した。そしてそれこそ命をかけてロイドを産んだのだ。あの時、私はアンナの…いや、母親と言うものの強さに改めて驚きを覚えたのだった。
ロイドを産んだあの日から、もうアンナは娘から母へと変わっていたのかもしれない。
アンナとロイド…。
温かい家庭には縁のなかった私にとって、生まれて初めての家族。これ程までに愛おしく大切な宝物を得る事が出来て、私は本当に幸せだった。
「アンナ……」
語り掛けようとアンナを見た私の目に、潮風になびいている髪を押さえているアンナの左手が飛び込んできた。
私は、その手の甲にあるエクスフィアを見た途端、思わず言いかけたその言葉を飲み込んでしまう。
「何?クラトス。」
「いや…何でもない。」
「変なクラトス。どうしたの?」
「いや、ちょっと名前を呼んでみたかっただけだ。私も久し振りの海で興奮しているのかもしれないな。」
アンナは笑い出した。
「嫌だわ。クラトスったら子供みたい。」
鈴を転がすような声で笑い続けるアンナを見て、私は苦笑を浮かべたのだった。
“アンナ、お前は幸せか?”
あの時私は、アンナにそう尋ねたかった。だが聞く事が出来なかった。
怖かったのだ…。私の望んでいる答え以外のものが返ってくるのではと。
だって、そうだろう?
あの左手の石によって未来を閉ざされてしまった彼女が、そんな自分を幸せだと思っている筈がないではないか。
そう思いながらも私は、例え答えは決まっていたとしても自分にはアンナの奥底にある本当の気持ちを知る義務があるのではと考え、それからも何度も尋ねようとした。だが結局最後まで尋ねる事が出来なかったのだった。
「……いつの間にか夜が明けてしまったか。」
過去の出来事へと思いを馳せていたクラトスは、鳥達の囀る声で現実へと引き戻された。
今クラトスはオリジンの石碑の前にいた。
もうすぐここにロイドがやってくる。そして私は、この命と引き換えに全てを息子へ託す事になるだろう。
「死を前にした人間は昔の事を思い出すとは聞いていたが、あれは本当のようだな。自分には縁のない事だと思っていたが…。」
やはり私はあの時、罵りを覚悟でアンナの気持ちを聞いておくべきだった……そんな後悔がずっと私の心にしこりとなって残っていたのだろう。だから今、死を前にしてその事を思い出してしまったに違いない。
だがどちらにせよ、もうすぐ私の命も終わるのだ。あの世にいったらいくらでもアンナに謝ればいい。そして出来る事なら今度こそ彼女と幸せに…。
そこまで考えてから、思わず苦笑を浮かべるクラトス。
「馬鹿な事を。そんな事無理に決まっているだろう。アンナは天国にいるが、私は地獄に堕ちてしまうのだ。会えよう筈がないではないか。」
もう無い物ねだりをするのは止めよう。私は一人、潔く地獄に落ちればそれで良いのだ。地獄こそが、妻をこの手で殺し息子を助ける事さえ出来なかった、この情けない男に最もふさわしい場所。こんな私が、これから何よりも愛する者の為に死ぬ事が出来るのだ。それだけで、もう十分ではないか…。
クラトスはロイド達が近づいてくる気配を感じ顔を上げた。傍らの剣を手に取り、彼等を迎えるべく立ち上がる。程なくしてロイド達が姿を現した。
「来たか…」
「どうしてもやるのか。」
「今更何を言う。中途半端な覚悟では死ぬぞ。オリジンの契約が欲しくば私を倒すがいい。」
「……みんなは下がっていてくれ。」
「一人で大丈夫なのか。」
「あんたが過去と決別するなら、それに引導を渡すのは息子である俺の役目だ。」
まっすぐに自分を見詰めてくる目を見て、クラトスは内心で微笑んだ。
相当悩んだであろう。それでも自分が正しいと思う事を決断できる強さがこの子にはある。どこまでもひたむきで、そして前向きに突き進んでいくその姿はアンナそっくりだ。
「ならば私も本気で行かせてもらおう。」
クラトスは剣を構えた。
「行くぞっ!」
力強く剣を交える二人。
初めの内はほとんど互角の力のぶつかり合いで一進一退を繰り返していたが、戦いが長引くに連れ、次第に戦況はロイド有利へと傾いていった。決して手を抜いていた訳ではない。クラトスは言葉通り全力で戦っていた。そんな自分をも押さえられる程にロイドが大きく成長を遂げていたのである。
呆れる程に全くまとまりのなかった剣が、今では荒削りながらもきれいにまとまりつつある。力押しばかりであった戦法も、その場その場の状況に応じ柔軟に対処出来るようになっていた。
ロイドが技を決めてくる度にクラトスの心は喜びに打ち震えた。
(よくぞここまで成長してくれた。それでもまだこの子は成長過程にある。これからもどんどん強くなっていくだろう。)
そしてついにロイドの剣がクラトスを捉えた。
ガクリと膝を折るクラトス。
「…強くなったな。」
「あんたのお陰だ。」
クラトスは、自分を見詰めたままそれ以上手を出してこようとしないロイドを見上げた。
「……止めを刺さないのか?」
「俺は、俺達を裏切った天使クラトスを倒した。そして俺達を助けてくれた古代大戦の勇者クラトスを許す……それだけだ。」
そう言って剣を収める息子の左手でエクスフィアがキラリと光るのを目にし、クラトスは目を見開いた。
そうか、お前はそこに……。
こんな私をお前達は許してくれるというのか。夫として父として、お前達の為に何一つ出来なかったこの私を…。
「フ…。やはりお前(達)は…とことんまで甘いのだな。」
目を伏せ立ち上がったクラトスはよろよろとオリジンの石碑の前に行った。
「待て!封印を解放する気か!?」
「……それが望みだろう?」
天使の羽を広げマナを放出するクラトス。
これで全てが終わる。
さらばだ。愛する私の息子よ…。
さらばだ。私に幸せをくれた愛する女性(ひと)よ……
「クラトス ッ!!」
ロイドの悲鳴のような声を最後に、クラトスは意識を失った。
『クラトス…』
自分を呼ぶ声に、クラトスはうっすらと目を開いた。
靄がかかり、しんと静まり返った場所。そこに自分は横たわっていた。
ここはどこだ?
いや、ここがどこかは分かっている。自分はたった今、長すぎる生に終止符を打ったのだ。
「…ここがあの世か。何しろ初めて来た場所だからな。すぐに分からなくて当然かもしれん。」
クラトスは苦笑を浮かべゆっくりと立ち上がると辺りを見回した。深い霧の為何一つ確認できなかったが、向こうの方から小川のせせらぎが聞こえてくる。吸い寄せられるようにそちらへ一歩踏み出したクラトスであったが、途端に鋭い声で呼びとめられた。
『そちらへ行っては駄目!!』
驚き足を止めたクラトスは、恐る恐る振り返った。
『それ以上そっちに行ったら、あなたは本当に死んでしまうわよ。』
「……アンナ?」
そこには、静かな笑みを湛えたアンナが立っていたのである。
『久し振りね。クラトス。』
「何故止めるのだ。私はもう…」
『いいえ。あなたはまだ死んではいないわ。』
「え?」
『でもあの川を渡ってしまったら最後、もう戻れなくなってしまう。あの川は死の国への入り口なの。』
クラトスは目を見開きガクリと膝を落とすと、喉の奥から絞り出したような声で言った。
「何故…何故、お前達は私を放っておいてくれないのだ。これ以上私に何を望む?何故このまま黙って逝かせてくれないのだ?」
『……』
アンナはそんなクラトスに近付くと、彼の顔を両手で優しく包み込んだ。
『私はエクスフィアの中から、ずっとロイドを見守ってきたわ。』
「やはりお前はロイドのエクスフィアに…」
アンナは頷いた。
『でも動く事も声を出す事も出来ない私では結局何もしてやる事は出来なかった。このままではロイドを守ってやれないかもしれない…そう思った時、あなたが現れた。あなたはロイドが自分の息子だとすぐに気がついてくれた。迷いながらも息子を全力で支え守ってくれたわ。そんなあなたを見る事が出来て、私はどれだけ嬉しかった事か…。』
「……」
『ねえ、クラトス。死ぬ事は償いになんてならないのよ。ましてや愛する者に自分を討たせるような真似は絶対にしてはいけない事なの。』
アンナはそこで一度言葉を切ると、辛そうに目を伏せた。
『私も前は、それが分かっていなかった。その事に気付いたのは全てが終わった後…。あの時私は、愛するあなたの手で殺してもらえれば幸せだと思っていたわ。でもそれは自己満足でしかなかったのよね。残された者の苦しみをちっとも理解しようとしていなかった。その結果、あなたに深い心の傷を負わせてしまった。私はあなたにこれ以上ない程の残酷な仕打ちをしてしまったのよ。』
「アンナ!それはちがっ…」
『ううん。違わないわ。もっと早くに気付くべきだった。そうすればあなたをこれ程に苦しめる事はなかったのだもの。それを考えると後悔しても、し切れない。私はあなたに私と同じ過ちを繰り返して欲しくなかったのよ。もし今あなたが死んでしまったら、今までのあなたと同じ苦しみを今度はロイドが背負って行く事になる。あなただって私と同じように後悔の念に苛まれ今以上に苦しむ事になるわ。安らかな死なんて迎えられるはずがないもの。それに、私達はロイドに償わなければならないと思うの。』
「私…たち?」
『ええ。私もあなたも、ロイドを育ててあげる事が出来なかった。だからせめて親として、私達はあの子の戦いを最後まで見届ける義務があると思うの。そうは思わない?』
目を伏せるクラトス。未だ迷っている様子の彼に、アンナは優しく微笑んだ。
『怖がらないで、クラトス。ロイドはもうあなたを拒絶したりはしないわ。それどころかあなたが手を差し伸べてくれるのをずっと待っているのよ。死ぬのはいつでも出来る。でも救いを求めている我が子に手を差し伸べる事は今しか出来ないのよ。もちろんあなた一人に押し付けたりしない。私も一緒に行くわ。だから、二人で力を合わせて今度こそ私達の大切な宝物を守り抜きましょう。』
「二人で……大切な宝物を…」
アンナは力強く頷いて見せた。
『すべてが終わったら、私、あなたが定められた生を終えるその日までずっと待っているわ。その日が来たら二人揃ってあの川を渡りましょう。』
「え…い、いや、しかし私は…」
どぎまぎとするクラトスを見てアンナはくすっ笑った。
『例え私が天国行きであなたが地獄行きになってしまったとしても、私も一緒に地獄に行くから大丈夫よ。ううん、あなたを地獄になんて行かせないわ。無理矢理にでも天国に連れて行くから安心して。だからその逆の場合でも、あなたが私を天国に連れて行ってね。』
「……お前が地獄に堕ちる筈なかろうが。」
『あら、そんな事分からないわよ。』
いたずらっ子のような表情を浮かべるアンナ。
とその時、突然クラトスの体が白く光り出したのだった。
『もう時間みたいね。あなたはこのまま元の世界に戻る事になる。』
「アンナ!」
『心配しないで。私も一緒に行くって言ったでしょう?私もすぐにロイドのエクスフィアの中に戻るわ。でもそうなったらもう話せなくなるから、今の内に一つだけあなたの問いに答えておきたい事があるの。ここで改めて尋ねてくれる?』
「えっ?」
『あなたが時々何かを尋ねようとしていた事に、私、気付いていたのよ。その内容も察してはいたけれど、私はあなたが言い出してくれるのをずっと待っていた。でも結局最後まで言ってくれなかった…。クラトス、私の最後のお願いよ。今ここで、その言えなかった質問をしてはくれないかしら?』
「アンナ…それは…」
『お願い、クラトス。』
アンナの目は真剣そのものだった。そんな彼女の願いを裏切る事など出来る筈がなかった。
クラトスは目を伏せ大きく息をつくと腹をくくった。
「アンナ…お前は幸せか?」
震える声でやっとの事でそう言うと、恐る恐るアンナを窺い見るクラトス。
アンナはニッコリと笑った。
『ええ。私はとっても幸せよ。』
「え?…」
『馬鹿ね。何故驚くの?あなたという優しい旦那様の妻になれて、その上ロイドという素晴らしい子を産む事が出来た。短い間ではあったけど、私はこれ以上はないぐらいの幸せな結婚生活を送る事が出来たわ。……有難う、クラトス。あなたに会えて本当によかった。』
アンナは消えかけているクラトスの肩に手をかけると、そっと口づけをした。目を見開くクラトス。
『現実の世界に戻ったら、もうあなたには私の姿は見えないでしょうし、声だって聞こえないでしょう。でも忘れないで欲しいの。私はいつだってあなた達と共にいる。ずっとあなた達を見守っているわ。さようなら、私の愛する人。そしていつかまた必ず会いましょう。その時はあの川の向こうで今度こそ幸せに……」
「アンナ !!」
その叫びを最後に、クラトスの体は掻き消えたのだった。
意識が戻った時、クラトスはユアンの腕にしっかりと抱きかかえられていた。
「本当に大丈夫なのか?」
ロイドの心配そうな声が聞こえてくる。
クラトスはゆっくりと目を開いた。
「……また死に損なったな。」
「馬鹿野郎!!死ぬなんていつでも出来る。でも死んじまったらそれで終わりなんだ!!」
思わずロイドを見上げるクラトス。ロイドは今にも泣きそうな顔で自分の事を見詰めていた。
「……」
“死ぬのはいつでも出来る。でも救いを求めている我が子に手を差し伸べる事は今しか出来ないのよ。”
アンナの言葉を思い出し、目を伏せるクラトス。
すぐにユアンの声が聞こえてくる。
「生きて地獄の責め苦でも味わえと?」
「誰がそんな事言ったかよ!死んだら何が出来る?何も出来ないだろ!!……死ぬ事には何の意味もないんだ!」
「…そうだな…そんな当たり前の事を息子に教わるとはな……」
アンナ…お前の言った通りだったよ。だが、まさかお前と同じ言葉を息子の口からもう一度聞こうとは思わなかった。
クラトスは目を閉じ笑みを浮かべた。その笑みはとても満足気で、そしてとても深い笑みであった。
数日後、クラトスは一人アンナの墓の前に佇んでいた。
「アンナ。ロイドは無事に精霊と契約を結ぶ事が出来、最終決戦に臨むべくデリス・カーラーンへと乗り込む事になった。私もそれに同道するつもりだ。ロイドが共に戦う事に快く同意してくれたのだ。」
アンナの得意げな顔が浮かんで来て、クラトスは思わず微笑んだ。
「そう、全てお前の言う通りになった。認めるよ。私はとんだ臆病者だった。有難う、アンナ。お前がいなかったら、私はまたとんでもない過ちを犯してしまう所だった。」
そこへ、ロイドの声が聞こえてきた。
「おーい、クラトス。そろそろ出発するぜ。」
クラトスはロイドに向かって軽く頷いて見せると、今一度墓へと向き直った。
「だ、そうだ。それでは行ってくる。ロイドや仲間達と力を合わせ、必ずや平和な世界を取り戻してくるから、お前は安心して眠っているがいい。」
最後に優しく頬笑みを浮かべると、クラトスは踵を返しロイドの元に向かった。
「母さんと話をしていたのか?」
「ああ。」
「そうか。母さん喜んだろうな。」
とその時、クラトスはロイドの左手のエクスフィアがキラリと光ったのに気が付いた。
それはなんだか怒っているかのようで…。
クラトスはハッとして苦笑を浮かべる。
(そうだった。お前も一緒に行くのだったな。)
「クラトス?どうしたんだよ。」
「ん?…いや何でもない。ただ、アンナはいつだって私達と共にいる。そう感じただけだ。」
「そっか〜。母さんが付いていてくれるなら、これ程心強い事はないや。それじゃあ張り切って行こうぜ。」
「ああ!」
向こうで待っている仲間達の元へ向かって、親子は揃って走り出したのだった。
“私はとっても幸せよ。……あなたに会えて本当によかった。”
私もだよ、アンナ。私もお前に会えた事に心の底から感謝している。
お前はこちらに戻った私には自分の姿は見えないだろうと言っていたが、そんな事はない。
私にははっきりとお前の姿が見えているよ。
何故なら、お前は今でも確かに生き続けているのだから。
私達の息子、ロイドの中で……。
−幸せ 終−