守りたいもの 前編


 前に天使様に聞いた事があるんだ。
「ねえ、天使様にとって一番大切なものって何?」
「一番?」
「やっぱりロイド君かな?」
「ロイドは今でも大切に思っている。私とアンナの大切な一人息子だからな。」
「…やっぱりそうだよね。じゃあさ、守りたいものって何?それもやっぱりロイド君?」
「ロイドはもう立派に一人前になってくれた。私が守ってやる必要もなくなっただろう。今の私が守りたいものといったら、やはりこの家かな。主夫としてこの家を守る事が今の私の使命だと思っている。」
 天使様はきっぱりとした口調でそう答えたんだ。

 予想はしていた。たぶんそう言うだろうなって思っていた。
 でもね、天使様。本当はこう言って欲しかったんだ。

 そんなのは、ゼロス、お前に決まっているだろうってね…




 ゼロス家の朝はいつも賑やかに始まる。
「天使様〜〜。朝からこんなに食べられるわけないっしょ。」
 テーブルに並んでいるのはでっかいステーキに山盛りのサラダ。これまた大盛りのスパゲティー。そのとなりには焼きたての食パン1斤。山盛りの野菜スープに食後のデザートのデコレーションケーキ。そして真ん中の大きな皿の上には七面鳥が。
「朝食は大事だぞ。しっかりと取らねば1日を元気に過ごす事は出来ん。」
「俺様を豚にする気?とにかく俺様はこれだけで十分だから。それじゃ行ってきます。」
 ゼロスはサラダとスープ。それにパンを1枚食べると逃げるように席を立ち玄関へと向かった。
「待て、ゼロス。そんな少しでは駄目だ。」
 追ってくるクラトスからなんとか逃れて玄関に辿り着いたゼロスはそこで思わず立ち止った。
 玄関の前にマットが引いてある。確か今までこんな物はなかったはずだ。ゼロスは不思議に思いながら恐る恐るそのマットの上に乗ると、それと同時に玄関のドアが開いた。
「!!」
「どうだ?自動ドアに改造したのだ。便利だろう?」
 後ろからクラトスの自慢げな声が聞こえた。

 確かに便利かもしれない。クラトスがやったにしては上出来な改造である。
 こういう改造なら大歓迎だ。

 ゼロスはニッコリと笑った。
「そうだね。便利だね。俺様がこのドアを使う第一号って訳だ。なんか嬉しいな〜。」
 クラトスは嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃあ、行ってくるね。」
「ああ、気を付けてな。」
 ゼロスは開いたドアをくぐろうと一歩踏み出した。そして彼の足がマットから離れた瞬間…

 ギュイーン! ガシッ!!
 グエッ!???

 いきなりドアが閉まり、ゼロスは挟まれてしまったのだ。
「……」
 挟まれたままの恰好で、涙を浮かべた目をクラトスへ向ける。クラトスは慌ててマットの上に飛び乗った。
 そのとたんドアが再び開き、ゼロスはなんとか外へと飛び出す事に成功した。
「す、すまない。ここに何も乗ってないとすぐに閉まってしまうようだ。」
「それじゃあ、永久に外に出れないじゃないの!危ないからすぐに元に戻しなさい!!」
「は、はい…分りました…」
 しゅんとしているクラトスを見てゼロスはため息をついた。
「まあ、俺様も怪我しなかったし、天使様も便利にしようとしてやった訳だし・・そんなにしょげないでいいよ。今度から気をつけようね。でも天使様の気持ちは嬉しかったよ。俺様の為に色々考えてくれて有難う。」
 クラトスの顔に再び笑顔が戻る。

 ああ、この笑顔だ。俺様ってこの笑顔に弱いんだよね…。
 この笑顔を見る度にほっとしてしまう自分に単純な奴だとあきれてしまう。
 でも天使様の笑顔を見ると本当に幸せな気持ちになれるんだよね。

「それじゃあ、行ってくるね。」
 ゼロスはニッコリと笑うと手を振って出かけて行った。




 クラトスとゼロスが一緒に暮らし始めて、もうすぐ一年となる。
 失敗だらけではあったが、クラトスは一所懸命に主夫業をやっていた。4000年生きてきているものの彼の常識の物差しは常に大昔のものである為に今とは少々ずれが生じてしまうのは致し方のない事であろう。その事をゼロスはよく理解していた。
だから、彼の少々の失敗は大目に見る事にしている。
 それよりも、今まで感情を表にあまり現わさなかったクラトスが少しずつだが色々な表情を見せてくれるようになった、その事の方がゼロスにとっては何よりも嬉しい事だったのである。
 ゼロスは本当に幸せだった。クラトスの笑顔が見れる事が、そして心を許せる存在が出来た事が…。
 だが、それと同時に彼は不安が頭をもたげてくるのを感じていた。

 クラトスは自分の事をどう思っているのだろう。
 彼も自分の存在を同じように感じてくれているのだろうか。

 馬鹿らしい疑問だと分っている。こんな風に彼の気持ちを疑うなんて失礼な事だとも承知している。
 それでも彼の口から直接聞きたかったのだ。それなのに…

 ゼロスはクラトスが遠く離れていくように感じ始めていた。
 そしてなにより、こんな事を考えてしまう自分自身に激しい嫌悪感を覚えるのだった。




 メルトキオ郊外のゼロス邸。一人の男がやってきて呼び鈴を押した。
「……」
 中から返事はなく、静まり返っている。男は電気のメーターが動いているのを見て中に人がいる事を確認し再び呼び鈴を押す。
しばらく待つものの相変わらず人が出てくる気配はない。三回目の挑戦を試みようとしたその時、すっとドアが開いた。
「!?ぎゃああああ!!」
 中に立っている者を見て男は悲鳴を上げた。
「なんだ。失礼な奴だな。」
「お、お前は人間か!?」
「当たり前だろう。他に何に見えるというのだ?」
 その人物は白の割烹着に三角巾を付けており、手にはゴム手袋をはめ、そして黒のゴム長をはいていた。そこまではいい。男をなにより驚愕させたのは、その人物の顔の部分であった。なんとガスマスクをかぶっていたのである。
「そ、そ、そのマスクは…?」
「ああ、これに驚いたのか。それはすまなかったな。『強力カビ殺し』を使って風呂の掃除をしていたものだからな。」
 男はドキドキと高鳴っている胸を押さえながら震える声でいった。
「な、なにもそんなマスクをかぶらなくても…モンスターが現れたのかと思った…」
「何を言っている。ちゃんと取扱説明書にメガネやマスクでしっかりと防御するよう書かれているではないか。個々の部品を装備するより、これなら1つですむから合理的だろう?それにモンスターとは何だ!?モンスターがこんな家に住んでいる訳がないだろう。少し考えればすぐに分かる事だろうが。一体お前はなんなのだ。人の顔を見て悲鳴を上げたり、モンスターだと言いがかりをつけてきたり、本当に失礼な奴だな。」
 男は深呼吸をして自分を落ち着かせた。
「申し遅れました。私はガス会社の者です。本日はお宅のガス器具の点検に参りました。」
「ガス会社?そんなもんに用はない。とっとと帰れ!」
 また家の中に引っ込もうとするのをガス会社の男は慌ててひき止めた。
「あなたに用はなくても、こちらには立派な用があるんです。3年に一度、ガス器具の点検は義務付けられているのですよ。今日がその日なんです。なあにお手間は取らせませんよ。お使いになっているガス器具をちょこっと点検するだけですから。」
「だからその必要はないと言っている。」
「あんたも分からない人だな。ですから点検は義務付けられているんですよ!」
「分らないのはお前の方だ。うちの屋根をよく見てみるがいい。うちは太陽光発電で、オール電化だ!!」
「へ?」
 ガス会社の男は後ろに5歩ほど下がって屋根を見上げる。確かに屋根に太陽光発電のパネルがはられていた。
「私の友人にエネルギー対策に詳しい男がいてな。その男の勧めでオール電化にしたのだ。よってうちにはガス器具はない。分ったらとっとと帰るのだな。私は忙しいのだ。」
 ガス会社の男はかなり慌てたようだった。必死に何かを考え巡らせている。そして何かに閃いたらしく、中に入ろうとするのを再びひき止めてきた。
「お待ちください。確かにあなたが仰る通りのようだ。しかし、おかしいですねえ。ほら、このようにお宅のガスメーターは確かに動いているんですよ。今月も2000円分お使いになっていると、ここにちゃんと記録されています。」
「?」
 クラトスは男が広げて見せたガスの使用状況の記録簿を覗き込んだ。そこには確かに使用しているよう記録されている。
「おかしいな。そんなはずはないのだが。」
 今度はクラトスの方が少々弱気になる。
「見たところオール電化になっているのは間違いないようですし、もしかしたらこちら側のミスかもしれません。しかし、それはそれで私としましてもそれをきちんと確認しない事には会社に戻れないんですよ。申し訳ありませんが中へ入って調べさせて頂けないでしょうか?」
「うむ。そのオール電化を勧めてきた男も実は結構ドジな男でな。もしかしたら手違いがあるかもしれん。分った。仕方がないな。このままでは私も気分が悪いしな。入って納得するまで調べるがいい。」
「すみませんねえ。」
 ガス会社の男はへこへこしながらクラトスに続いて家の中へ入ろうとした。すると、

 グヘッ!?

 一歩踏み出したとたんドアに挟まれてしまった。クラトスが慌てて戻ってくる。
「すまん。少々感度の良すぎる自動ドアでな。直すよう言われていたのだが、まだここまで手が回らなかったのだ。」

 なんなんだ、この家は!!

 クラトスに助け出され、ガス会社の男は挟まれた脇腹をさすりながらクラトスの後について家の中へ入っていったのだった。




 その日の夜。ある小屋の中で5人の怪しい男たちが何やら話し込んでいる。その中のリーダー格らしい男が尋ねた。
「で?どんな様子だったのだ?」
「へい、それがですね…」
 その問いに答えている男…なんと、昼間ゼロス邸を訪れたガス会社の男であった。
「家には神子と、あと間抜けな家政婦…いや、男だったから家政夫っていうんですかね、その二人しかいないようでした。」
「神子の家に家政夫が一人だけだと?」
「へい…中に入ったあと、間抜けな家政夫から色々聞きだしたんで間違いありやせん。」
「フ…そうか。それは仕事がやりすいな。」
「家政夫はどうしやす?バラしちまいますか?」
「いや、“あのお方”は無駄な血が流れる事は望んでおられない。我々は神子さえ拉致できればそれでいいのだ。その家政夫が出かけて神子が一人の時を狙おう。」
「わかりやした。それじゃ、交代で家政夫の行動を調べ上げるとしやしょう。」
「フフフ。あの邪魔者の神子さえいなくなれば、“あのお方”も動きやすくなろうというものだ。もう、この世界に神子など無用の長物だ。いらないものは排除する。それがこの世の為というものだ。そうだろう?」
 くっくっくっと笑う5人の男たち。

 今、不気味な黒い影がゼロスとクラトス二人の上を覆い始めていた。




 「シルヴァラントと友好条約を結ぶだと?」
 テセアラ王はゼロスの進言に眉をひそめた。
 ここはテセアラ城、謁見の間。ゼロスが王にシルヴァラントとの条約締結を進言していた。
「わしは反対だ。」
 すかさず大臣のデザングが異を唱えた。
「あんな科学力も何もない時代遅れの野蛮な連中と友好などとんでもない。結んだとて我が国になんの益も生じんではないか。それに奴らはハーフエルフの受入れにも積極的と聞く。あんな化け物と仲良くしようなどと馬鹿げた考えの国とは関わりをもたぬ方が無難じゃ。」
 ゼロスは大臣の意見をせせら笑った。
「ハーフエルフを化け物だとか敵視する方がよっぽど時代遅れだと思うがね〜」
「な、なんじゃと!?」
「あんたは益がないって言ったけどさ。あちらさんにしかない物や、こっちには不足しているがあっちには豊富にあったりする物もあるんだぜ。もちろんその逆もね。交易を結べばお互いの利益になると思うんですがね。」
「そんなもんは奴らを我が国に吸収してしまえば済む事だ。その方が余程早道ではないか。」
「関わり合いたくないと言っていたかと思ったら、今度は吸収しちまえと言ってみたり、あんたも忙しい人だね。全く、これだから力でごり押しするしか能のない野蛮人は困るんだよね。俺様から言わせりゃあんたの方が化けもんだね。」
「調子に乗るな!!この若造が!!」
「まあまあ。」
 もう一人の大臣であるオネッシーが険悪な二人の間に割って入った。
「デザング殿の言われる事も一理ありますが、分れていたとはいえ、元は一つの大地で生活していたもの同士。こうして一つに戻った訳ですし、もう少しあちら側とよく話し合った方が良いのではありませんか?」
「フン!!お前のような役立たずは黙っておれ!大臣とは名ばかりの能無しがこんな時だけ尤もらしく口を挟んでくるな!」
 オネッシーは俯いて黙り込んでしまう。ゼロスはそれを見て舌打ちした。
「今度は八つ当たりかよ。みっともねえぜ、おっさん。」
「いい加減およしなさい。見苦しいですよ、あなた達。」
 今まで黙っていたヒルダ姫がとうとう見かねて口を挟んできた。そして父王の方を見て、
「陛下。私ごときが口を出す事ではありませんけど、私もオネッシーが言った通り、シルヴァラント側とはもっとよく話し合うべきだと思いますわ。ここは前向きに考慮すべきだと…」
「うむ、そうだな。我々もこの辺で考えを変えていく必要があるやもしれん。そうしなければクルシスと同じ轍を踏みかねんからな。近いうちにシルヴァラントの代表との席を設けることにしよう。神子に手配の方は頼むがよいかな?」
「は。お任せ下さい。」
 ゼロスは深々と国王にお辞儀をした。
「デザングもそれでよいな?」
「はは〜。」
 こうしてヒルダ姫の助力もあって、ゼロスの進言は受け入れられ、一歩前進する事ができたのであった。




 謁見の間を退出したゼロスは、とりあえずメルトキオの屋敷に立ち寄り溜まっている書類に目を通すことにした。すると、王宮をでたゼロスの後を追うようにオネッシーがやって来て声をかけてきた。
「神子様。先程はお力になれず、申し訳ありませんでした。」
「別に良いんじゃないの。結局ヒルダ姫のおかげで話し合いの場を設ける事になった訳だし。て言うかさ。あんたも大臣なら、デザングにかみつくぐらいの覇気を持った方がいいんじゃないの?いつまでも米つきバッタみたいにペコペコしてるからあんな奴に馬鹿にされちまうんだよ。」
 オネッシーの顔が青くなる。ゼロスはそんな彼に背を向けた。
 ゼロスはごり押しのデザングは言うまでもなく、このオネッシーも好きではなかった。いつも他人の顔色ばかり窺ってオロオロとしているこの男の姿を見る度に無性に腹が立ってくるのだ。
 だが、これではまるで八つ当たりではないだろうか。クラトスに対するもやもやとした思いを整理できずにいたゼロスは、正直相当にイライラしていた。それをたまたま目の前に現れたあの男に思わずぶつけてしまったのだ。自分もあのごり押しデザングと同じ事をしていると即座に反省したゼロスは、オネッシーに謝ろうと振り返ったが、もうそこに彼の姿はなかった。
「あっちゃ〜帰っちまったってか?参ったな〜。」
 ゼロスは困った表情を浮かべ、ぽりぽりと頭をかいた。
「俺様、サイテーだな。今度会った時ちゃんと謝んなきゃな。」
 ゼロスは己のしてしまった愚かな行為にがっくりと肩を落とすと屋敷に向かって歩き出した。そんなゼロスのもとへ今度はデザングがやってきた。ゼロスは心の中で舌打ちした。

 全くついてない。今日は厄日か?
 いらん奴ばかり寄ってくる…

 デザングはその風体に似合わない晴れやかな笑顔を浮かべ、ゼロスに話しかけてきた。
「神子殿。先程はみごとな饒舌ぶりで。感服つかまつった。」
「あ、そう。そりゃどうも。」
「ところで神子殿。先日、妙な噂を耳にしましてな。」
「妙な噂?」
「なんでも神子殿が、あのクルシスの四大天使と一緒に暮らしているという噂なんですがね。」
 ゼロスの目がギラリと光った。
「私はもちろん否定したんですがね。仮にも神子様ともあろう方があの悪の元凶のクルシスの四大天使と共にくらすなどあり得ん事ですからなあ。」
 ワッハッハッハッと笑うデザング。
 ゼロスはブチ切れた。
「だったらどうだと?それで俺様の弱みを握ったつもりででもいるわけ?あいつはあんたの言うような悪人じゃないし、それどころかこの世界を救う為に俺達と一緒に戦ってくれた大切な仲間だ。今度そんな口叩いてみろ。この俺様が許さねえからな。言いたけりゃ陛下にでも何にでも言うがいいさ。ついでに忘れてるようだから言っておくけどな。俺様は神子だ。神子制度が廃止されない限り俺様の地位は今まで通りなんだ。本当だったらあんたなんかが気軽に話しかけられるような地位じゃないんだぜ。もっと口の利き方に気をつけるんだな。」
 吐き捨てるように一気に言うと、ゼロスはデザングを睨みつけて立ち去って行った。
 デザングはそんなゼロスの後ろ姿を見て呟いた。
「フン。せいぜい今のうちに粋がっておく事だな。わしを怒らすとどういう事になるか思い知るがいい。」
 そして、不気味な笑みを浮かべたのだった。




 今日はゼロスは仕事が休みの日であった。よって、家でゆっくりと寛いでいる。
ソファーに寝そべって新聞を読みながら、今日はクラトスとあんな事やこんな事をしちゃってラブラブな一日を過ごすんだと、色々と妄想しながら含み笑いを繰り返していた。
 そんなゼロスをよそに、当のクラトスはと言えば朝も早くから家中にパタパタとはたきをかけまくっていた。パタパタ、パタパタと忙しげに動き回りながら、ついには相変わらず含み笑いを繰り返していたゼロスの所へやってきてパタパタとやり始めた。
 ゼロスは堪らず飛び起きた。
「ちょっと、俺様ゴミじゃないんですけど?」
「そんな所に転がっているから間違えてしまった。」
「あのねー。いくら温厚な俺様でも終いには怒るよ!」
「冗談だ。」
 棒読みのように言うクラトスにゼロスは脱力した。
「たまの休みぐらいゆっくりさせてくれたっていいでしょうが。俺様毎日骨身を削って働いてんのよ。」
「会社の仕事には休みがあるかもしれんが、家事に休みはないのだ!」
 クラトスは胸をはって叫んだ。ゼロスは目を丸くする。
「…と、何かの宣伝で言っていたが全くその通りだ。主夫にとっては毎日が戦争なのだ。お前に手伝えとは言わぬ。だが、せめて邪魔にならぬ所で休んで貰いたいのだがな。」
 そう言って再びパタパタとやり出した。ゼロスははたきをつかんだ。
「じゃあさ。天使様も今日は家事をお休みすればいいじゃん?そいでもって俺様と…」
「そう言う訳にはいかぬ!」
 クラトスははたきを奪い返した。そして作業を続けようとしたが、その手がふと止まった。そして突然はっとした表情になったと思ったら慌てて壁の時計を仰ぎ見る。
「どうしたの?」
「いかん、忘れる所だった。今日は10時からスーパーのパーコックで野菜の投げ売りがあるんだった!」
「へえ〜よかったじゃん。トマトがいっぱい買えるね。」
 ゼロスは意地悪そうに笑った。
「俺様、ナポリタンとポワレがお腹イッパイ食べたいな〜」

「そんな家畜のエサは絶対に作らん!!!」

 クラトスはそう怒鳴りつけるとガマ口をつかんで風の如く走り去って行った。
 ゼロスはペロリと舌を出して、クラトスが出て行った戸口に向かって手を振るのだった。




 ゼロス邸の裏手にある小高い丘の上。怪しい人影が一つ、双眼鏡でゼロス邸の様子を窺っていた。
「今、へっぽこ家政夫が走り出ていきやした。ただいま家の中には神子が一人だけです。」
 通信機を取り出すと報告を始める。
『よし、決行だ。殺すんじゃねえぞ。眠らせて連れ出すんだ。こっちから応援を二人出す。神子はああ見えて凄腕だ。うまくやれよ。』
「了解!」



 クラトスが出かけてから少しして、玄関のチャイムの音が聞こえた。
「ありゃ?天使様忘れ物でもしたのかね。」
 首を傾げながら玄関に向かうゼロス。でも鍵は持っているはずだけどねと、訝しむ。そして用心深く細めにドアを開いた。

 誰もいない…?
 さては悪戯か?

 ゼロスは辺りに気を配りながら外へと出た。見回してみるが何の姿もない。
「チッ、やっぱり悪戯かよ。全く人騒がせな。」
 踵を返して家へ入ろうとしたその時、
「!!」
 背後から羽交い締めにされて布を口に押し当てられた。激しく抵抗したものの嗅がされた薬のせいで徐々に力が抜けて行った。

 てんしさま…

 賊には聞こえぬ程の小さな声でそう呟いたのを最後に、ゼロスは完全に意識を失ったのだった。




 ママチャリにまたがったクラトスが、ゼロス邸近辺に姿を現したのはその数分後の事であった。後ろのかごには安売りでGETした、たくさんの野菜が積み込まれている。
「じ〜んせい、楽ありゃあ、く〜もあるさ〜、涙のあとには〜に〜じもでるぅ〜。あ〜とか〜らきぃ〜たぁ〜のぉに〜お〜いこぉ〜さ〜れ〜、な〜くぅ〜のがいやな〜ら〜。さ〜あこ〜い〜で〜!!」
 歌を歌い自分を励ましながら、すっかり重たくなった自転車をこぎこぎ急な坂道を上って行くクラトス。やっとの事で家へと辿り着いた。自転車をガレージに戻すと、野菜てんこ盛りの袋を両手に、うんせうんせと運び出す。そして、自動機能をはずした玄関のドアを蹴破り中へと入っていった。
「ゼロス〜今帰ったぞ〜」
 叫んでみるも返事はなく、家の中はし〜んと静まり返っていた。
「???」
 とりあえず買い物袋をテーブルの上に置くと、家中を探し始めた。二階の各部屋をはじめ、一階の部屋に、キッチンに風呂場。トイレの中まで覗いたが姿がない。
「出かけたのかな?」
 クラトスは首を傾げ呟いた。
「それにしたってメモぐらい残して置いてくれてもよかろうに…」
 クラトスは帰りを待つ事に決めたようで、買ってきた野菜を冷蔵庫に詰め込み始めたのだった。



 窓からその様子を覗いていた男は、通信機を取り出し囁くような小声で報告した。
「例のへっぽこ家政夫は神子が外出したものと思ったようです。」
『…そうか、うまくいったな。あとは“あの方”がアジトに来られるのを待つだけだ。お前も戻ってきていいぞ。戻り次第、みんなで祝杯をあげるとしよう。全く間抜けな家政夫さまさまだな。クククク…』
「了解しやした。すぐに戻りやす。」
 男は通信機を切ると、声を出さずに笑った。その男は以前ゼロス邸にやってきた自称ガス会社の男であった。

 あの時はドアに挟まれたりと色々とひどい目にあったが、今にして思えば家政夫がああいう馬鹿で助かったな。

 男は再び窓から中を覗き込むと、未だ何も気づかない様子のクラトスをせせら笑ったのであった。


−後編へつづく−