トイレット


 その災難は突然にやってきた。いや、もしかしたら前触れはあったのかもしれない。だが、クラトスはそれに全く気が付かなかったのだ。
 その夜、家事を一段落したクラトスは、鼻歌交じりにトイレに向かった。毎日朝と夜の二回、出すものは出してすっきりとする。それが彼の日課であった。そのお陰で彼は毎日を快適に過ごす事ができている。トイレは彼にとって健康のバロメータだったのだ。
 ところが、その夜に限って様子がいつもと違っていた。彼の健康状態ではない。トイレがである。

 ジョボジョボジョボ…

 トイレに辿り着いたクラトスは扉の向こうから聞こえるこの異常音に首を傾げた。
 ここに来る時、ゼロスは居間でテレビを見ていた。だから現在誰もトイレに入っていない事は明白である。
 では、またタンク横にある洗浄ハンドルが下がり切らずに水が流れっぱなしになっているのだろうか?
 なにしろこの家は中古で手に入れた物。当然トイレも年代物で、時々そのような事が起きるのだった。
「ゼロスの奴、だからあれ程出る前に確認しろと言っていたのに…。」
 ぶつくさとボヤキながら扉を開けるクラトス。すると…
 ハンドルはきちんと下りていた。だがそれにも拘わらず上部の手洗い吐水口から水が出続けているのだ。その為タンクから水が溢れ出てしまっており、周りが水浸しになってしまっている。
「!!こ、これは!」
 原因を探るべくタンクの蓋を上げてみるも、溢れ出る水で中はよく見えず…
「ゼロス!ゼロス!トイレがっ!トイレが〜〜!!」
「何、何、どうしたの、天使様?……って、ホギャ〜〜!なんじゃこりゃ〜〜!!」
 クラトスの悲鳴にゼロスが駆けつけてくるが、オロオロとするばかりで埒が明かない。
「そうだ!あそこへ電話を…」
 クラトスは居間に駆けもどり一枚のチラシを手にする。そこには『水まわりのトラブルならお任せ下さい♪ (株)モラシアン』との文字が…。こんな時の為に取っておいたのだ。
「もしもし、もしもし、タンクから水が溢れて止まらないのだが!」
「すぐに修理の者を向かわせます。2時間ほどお待ち下さい。」
「ぬわんだと〜!2時間も待てと言うのか!!お前らは24時間迅速対応がモットーなのではないのか!!」
「申し訳ございません。あいにくとお客様の近くに営業所がなく、一番近いところから向かってもそのくらいかかってしまうのです。夜で道路も混んでおりますし…」

 何故近くに営業所がないのだ〜!!

 しかし、ないものは仕方がない。それよりも切羽詰まった問題が…。
「い、い、今現在、トイレがスプレッド状態なのだ。とてもじゃないが粋護陣では防ぎきれん。このままでは我が家が水没してしまうではないか!なんとかしろ!!」(←焦る余り、業者にとって一番迷惑な客に成り果てている男)
「それではとりあえず止水栓を回して水を止めて下さい。」
 その場所を聞き、電話を切ると再びトイレに向かうクラトス。溢れる水もなんのその、止水栓に近付き回してみる。しかし…
「何だ?回らんぞ?」
「古いからねえ。固まっちゃってんじゃない?」
「何、のんきな事を言っているんだ、ゼロス!ボーっと突っ立っていないで何とかせんか!」
「そんな事言ったってどうしようもないっしょ。」
「く〜〜〜っ!!」
 もうゼロスは当てにならない。
 クラトスは役立たずは放っておく事にして、少しでも被害を抑えるべく新聞紙やタオルを敷きつめ始めたのだが、もはやタイダルウエーブ状態のトイレには殆ど効果がなく……溜め息をつくとドアを閉めた。
「まあ、なんだ、まだ水が外に溢れ出てくるまで間があるからな。とりあえずこうしておけば中の状態を見てやきもきする事もなくなる。」
「天使様。それって臭い物に蓋ってやつ?」
 ギロリとゼロスを睨み付けるクラトス。その手が剣の柄へとかかる。
 するとその時だった。

 プルルルル…

 電話?…なんなんだ。今いいところなのに…。

 クラトスは軽く舌打ちをすると、仕方なく電話へ向かった。
「もしもし。」
「ちわ〜、モラシアンですが〜。」
「!!貴様、遅いぞ。何をやっているんだ!」
「すみません。なにしろ道が混んでまして…。ところで水、止まりました?」
「それなんだが、受付の女性に教えてもらった止水栓が全然動かなくてな。」
「古いとそういう事があるんですよね。では奥の手を伝授致しましょう。水道メーターの場所分かりますか?」
「水道メーター?…ああ。」
「ではそのメーターの横にバルブが付いてますから、それを締めちゃって下さい。そうすれば止まります。」

 そんな手があるのなら、奥になど隠してないで早く教えんか〜〜!!

 心の中で怒りの声を上げるクラトス。相当苛々しているようだ。
 だがよく考えてみれば、わざわざ電話をかけてきてくれたのは有難い事であり…。そこでなんとか怒りを抑えると言った。
「分かった。やってみよう。」
「お願いします。ただしそれだとトイレだけじゃなく家中の水が出なくなっちゃいますけどね。まあ、一時間ぐらいの事ですから大丈夫でしょう。すみませんねぇ。あと30〜40分ぐらいで着きますから。もう少し待っていて下さいね。」
「うむ。なるべく急いでくれ。」
 電話を切ると、クラトスは早速水道メーターへと向かった。
 時は夜。辺りは真っ暗である。だが彼には秘密兵器があった。
 それは手動式懐中電灯。電池は使わずにハンドルを回して手動で充電するという優れ物で、以前、もしもの時の為に買っておいたのだ。
「もしもの時…フッ、まさに今のような状況を指す言葉だな。」
 笑みを浮かべ、クルクルとハンドルを回し始めるクラトス。
 ところがいざ点けてみると、これが思っていたよりも光が弱く、照らされるのは極小さな範囲のみ。これでは少々心許無い。しかし、いくらハンドルを回してもそれが変わる事はなかった。
「やはり安物は駄目だな。」
 クラトスは再びチッと舌打ちをすると家の中に戻り、何か代わりになる物はないかと探し始めた。

 携帯電話の明かり……意外と暗い。
 羽を広げてみる……ゆらゆらしていて頼りない。
 蝋燭……もっと暗い上に燭台がないので手が熱くなる。
 ガスライター……もっともっと暗い。
 マッチ……もっともっともっと暗い上に手が熱くなるし、なんだかマッチ売りのお兄さん(?)になったようで嫌だ。

「くっ、こうなったら私の鋭い眼光で!!…………駄目か。(←当たり前だろ!)」
 溜め息をつくと、仕方なく手動式懐中電灯を手に再び外へ出て行くクラトス。やはりこれが一番まともなようだ。
 そしてなんとかバルブを締める事に成功したのだった。


 それから待つ事20分。ようやく修理屋が到着した。
 原因は、愛用していたトイレタンクの中に入れるタイプの消臭洗浄剤がつまった事によるものだった。それを除去した後、修理屋はこう言ったものだ。
「こういうのは、あまり使用しない方がいいですよ。」
 クラトスはそれに対して、『今まで使っていてなんでもなかったのだが』と反論しようと思ったのだが、止めた。このような場合はあまり逆らわない方がいい。
 しかし修理屋はクラトスの物言いたげな様子に気付いたようで、説明を始めた。
「何故って、中の部品を傷めちゃうんですよ。まあ、最近のトイレは皆、部品がプラスチック製だからまだいいんですがね。でもお宅のような古いタイプのトイレは金属でできているので錆びてしまう。」
「うむ、そうなのか。」
「ええ。それでもどうしても使いたいのなら、上に置くタイプに変えた方がいいっすね。それと、このビール瓶を入れてあるの……恐らく節水の為だと思うんですが、これもつまりの原因になるから止めた方がいいですね。」
 それは前の持ち主がやっていたもので、クラトスはただ取り除くのが面倒だから放っておいただけの事。従って自分には責任はないと思ったのだが(←いや、責任はあるだろ?)、やはり大人しく頷いておく事にする。


 結局、部品を全部新しい物に換えてもらう事にし、修理屋は作業を終え帰って行った。
 それを見送ると、ぐったりとソファーに腰を下ろすクラトス。

 いやはや、えらい目に遭ったものだ。
 だが色々と勉強になったし、新たに判明した事もある。

 第一に、あの手動式懐中電灯がほとんど役に立たないという事。
 第二に、非常時にゼロスは全く頼りにならないという事。

 いささかショックではあったが、今のクラトスにとってそれはもう、どうでもいい事であった。
 再びトイレが使用可能となった……それだけで彼は幸せ一杯の気分だったのである。

「さて。それでは早速、本日最後のトイレに向かうとするか。」
 クラトスは笑みを浮かべると、ソファーから立ちあがったのだった。


−トイレット 終−