森の中を一人の男が走り抜けて行く。
 長く伸びた癖のある青い髪を無造作に束ね、見事なまでに筋肉が付いた逞しい体をしなやかに躍動させているその姿は、ちょっと見、まるで野生児のようである。しかしそんな中にも、高貴なものが持つ気品のようなものも感じられ、なんとも不思議な雰囲気を持った男であった。
 よく見ると男の着ている服は囚人服で、手枷をしている。どこからかの脱走犯なのだろうか。
 男は息を弾ませながらひたすら走り続ける。それはそのまま世界の果てまで走って行ってしまうのではと思わせるような勢いであったが、やはり疲れていたのだろう、ふと体勢を崩すと木の根に足を取られて派手にすっ転んでしまったのだった。
「くっ、油断した。」
 歯を食いしばり、なんとか体を起こす男。見ると、ズボンが破れ、膝から血が滲んでいる。次の瞬間、男の口から信じられないような叫びが飛び出していた。
「ち、ち、血が……うっ、うっ、痛いよ〜〜、お母ちゃん!!」
 膝を抱え、泣き叫ぶ男。それは、厳めしい外見からは全く想像出来ない非常に情けない姿であった。どうやら男は血が大の苦手のようである。
 男はしばらくの間そのまま泣き続けていたのだが、誰も助けに来てくれない事に虚しさを覚えたのか、はたまた、みっともない姿である事にようやく気付いたのか、やがて他人に見られていない事を確かめながらゆっくりと立ち上がると、髪を掻き上げ何事もなかったかのようにニヒルな笑いを浮かべた。その変わり身の早さはもはや見事としか言いようがない。

 こんな所で倒れるわけにはいかない。
 私にはやらねばならぬ事がある。
 それを果たすまで、私は走り続けねばならないのだ!

 キッと空を見上げると、再び走り出す男。

 己の使命に燃えるのは実に結構な事だ。傍から見ていても、その姿は美しいと思う。だが今は、そうやって天を見上げて走るより、もっと足元を見て走った方がいいと思うのだが…。

 案の定、男は走り出して間もない内に再び木の根に足を取られすっ転んでしまう。
「ム…出来る!」
 木の根を見詰め呟く男。
 だが今度は泣いたりはしなかった。やおら立ち上がると鋭い目で木を睨み付ける。
「ならば、これならどうだ。」
 そう叫ぶと同時に男はなんと周りの木々に向かって回し蹴りを喰らわせ始めたのであった。驚いた事に木は折れる事無く、まるで引っこ抜かれたかのように根元から次々に倒れて行く。まさに神業とも言える見事な蹴りであった。そうして男は瞬く間に周りに生えていた木々を全て引っこ抜いて…いや、蹴り倒してしまったのである。
「フ…許せよ。死ぬわけにはいかんのでな。」
 これで邪魔者はなくなったとばかりに再度走り始める男。
 しかしここは森の中。木は他の場所にも腐るほど生えている。その為、男はその後も何度となくすっ転ぶ事になるのだが、さすがに森中の木を引っこ抜くわけにはいかず、男は転ぶ度に「出来る!」「くっ、油断した。」を繰り返し叫びながら森の奥へと消えて行ったのだった。




 シルヴァラントベース…。
 砂漠の中にひっそりと建つその建物は、何を隠そう、クルシスに対抗するべくユアンが立ち上げた闇の組織、レネゲードのアジトであった。レネゲードの目的は、マーテルを大いなる実りから解き放ち大樹を復活させる事。その目的を果たす為に、ユアンの指揮の元…いや、最近のユアンはク〜のお守で忙しいので、彼の代行であるボータの指揮の元、日夜訓練に励んでいる。
 もうすぐ753代目(正確には分からない、と言うか、もう数えるのも面倒臭くなってきているので数字は適当である)の神子が再生の旅へと旅立つ。その神子を暗殺するべく、今レネゲードはその作戦の最終調整に余念がなかった。
 そんな忙しい日々を送っているシルヴァラントベースに、その日、一人の男の子が姿を現したのであった。
 年の頃は四、五歳ぐらいだろうか。流れるような長く青い髪をきちんと背中で束ねており、大人用のシャツをワンピースのように身に纏い、足にはぶかぶかのブーツを履き、その上に青い大人用のマントを羽織っている。こうして書き連ねると、なんとも珍妙な恰好ではあるが、身の丈に合わない長いマントを引き摺り、ブーツをパカパカさせながら歩くその姿は、実際に目の前にしてみると、妙にマッチして映り、非常に愛らしく見えてしまうから不思議だ。
 男の子はベースの前までやってくると、年には似合わない鋭い目で見張りに立っている二人の隊員を見やった。思わず顔を見合わせる隊員達。
「迷子かな?」
「さあ?」
 ここは砂漠。親とはぐれてしまう子供もいる事は確かである。しかしそんな場合、魔物にやられてしまうのがほとんどで、このシルヴァラントベースや町まで辿り着く事が出来る子供はゼロに等しかった。
「まさか幽霊なんて事はないだろうな。」
「馬鹿言え。見てみろ。ちゃんと足が付いているじゃねえか。」
 男の子は眉をひそめながらそんな隊員達の様子を眺めていたが、やがて溜息をつくと、こんな馬鹿どもには構ってられないとばかりに二人の間を通り抜けようとした。
「ちょ、ちょっと待った。どこへ行こうっていうんだ。」
 慌てて腕を掴み引き止める隊員達。
「離せ。私を誰だと思っているんだ!!」
 男の子の口から発せられたその声は、四歳の子供にしてはやけに大人びている。

 はて?どこかで聞いた事があるような…。

 首を傾げる隊員達の隙をついて、ようやく振り解く事に成功した男の子。じっと自分の手を見詰めながら意味不明な事を呟く。
「やはり力の方はだいぶ落ちてしまっているようだな。この体では仕方がないか…」
 再び顔を見合わせる隊員達。

 この子供は頭がおかしいのだろうか?

 しかしだからと言って無下に追い返す事も出来ない。
 堅気の…いや、一般人の子供には優しく接するべしというのが、ボータのモットーであった。それを破った者にはきついお仕置きが待っている。しかもこの子供は我々と同じハーフエルフだ。同族を殺したりしたら、それこそお仕置きどころか命まで取られてしまうかもしれない。
 そう考えた隊員達は、厳めしい顔には似合わない笑顔を必死になって浮かべながら優しい声音で話しかけたのだった。
「坊や、ここは坊やが来るような場所じゃないんだよ。中に入ったって坊やが遊ぶようなものは何もないし、危ないだけだ。良い子だから大人しくお帰り。」
 ところが男の子はそんな隊員達の涙ぐましい努力を鼻で笑うと、忠告を無視してそのまま進もうとしたのであった。元々短気だった隊員達は、その態度についにブチ切れてしまう。
「おのれ〜〜、鼻で笑うとは無礼千万!!人が下手にでてりゃ、いい気になりやがって。叩き出してやる!!」
「無礼千万?…無礼なのはどっちだ。身の程を思い知れ!!」
 男の子は飛びかかって来る隊員達を前にしても全く動じる様子はなく、それどころかそう叫び返すとなんと無詠唱でサンダーブレードを放ってきた。
 ハッとする隊員達。直ぐに避けようとしたのだが、如何せん遅すぎた。そもそも無詠唱で放たれた呪文を避け切れる筈もなく、彼等はあっけなくやられてしまう。
「うむ…術の威力は変わっていないようだな。この体の時は、武器攻撃より術攻撃中心に戦う方が無難かもしれん。」
 再び手を見詰めながら呟く男の子。そして伸びている隊員達には目もくれず、そのまま何事もなかったかのようにトコトコと建物の中に入って行ったのだった。

 男の子の侵入に、ベース内はたちまち物凄い騒ぎとなった。
「警戒警報!警戒警報!ベース内に不審者が侵入。不審者はまだオムツも取れていないような四歳ぐらいのガキ一匹!!」
 けたたましく鳴り響くサイレンの中、武器を手に飛び出して来た隊員達であったが、それを聞いた途端脱力してしまう。
「四歳のガキ一人だってよ。」
「なんでそんなのでこんな騒ぎになるんだよ。」
「知るか!警報装置が故障でもしたのかもしれん。」
「とにかく捕まえりゃいいんだろ。ガキ一匹捕まえるのなんて楽なもんよ。」
 そこへ当の男の子が、大きすぎるブーツを「ペッタン、ペッタン」と鳴らしながら姿を現した。
 その奇妙な音に振り返った隊員達。やって来る男の子を目にして「ああ、このガキの事か。」と思ったのも束の間、武器を構える間もなく、次々にライトニングに打たれ倒されて行ってしまう。それからも男の子は、現れる隊員達をことごとく排除しながら「ペッタン、ペッタン」と更に奥へ奥へと進んで行ったのだった。

 警戒警報は、奥の執務室にいるボータにももちろん聞こえていた。だが、侵入者の年齢をきくに及び、如何に間抜けな隊員達とて、まさか四歳の子供相手に後れを取る事はないだろう。すぐにこの騒ぎも収まるに違いない…と考え、自分が出て行くほどの事ではないと判断して業務を続けていたのだった。
 ところが、どういうわけかいつまでたっても警報は鳴り止まず、一向に騒ぎが収束する様子がない。
「何をやっているのだ。」
 舌打ちをしながら廊下へと出たボータは、途端に一人の隊員に抱きつかれた。
「ああ、ボータ様、ガキが…ガキが…」
「子供が迷い込んで来た事は分かっている。だが捕まえて外に出せば済む事だろう。何を手間取っているのだ。」
「捕まえるなんてとんでもない。ありゃあ、化け物だ。エイリアンだ。ターミネーターの襲来だ。逃げましょう、ボータ様。早く、早く!!」
「何を訳のわからん事を…」
「冗談なんかじゃありませんぜ。みんなやられちまったんですよ。あいつに!」
 涙を流しながら必死に訴える隊員。すると廊下の角の向こうから「ペッタン、ペッタン」という足音が聞こえて来た。
「ひぇ〜〜っ!来る!来る!悪魔が来りて笛を吹く〜〜〜!!」
「笛って…あれは足音だろう?」
 しかし隊員はすでに泡を吹いて気絶してしまっていた。
「……」
 この怖がりようはただ事ではない。だが、レネゲードの隊員達は皆、一通りの戦闘訓練を積んで来た者ばかりだ。いささか頼りない所はあるが、それでも並の戦士相手なら十分に渡り合えるだけの実力を持っている筈なのである。そんな大の男達をここまで震え上がらせてしまう子供など、この世に存在するものだろうか?
 ボータには到底信じる事など出来なかったが、とにかくこれ以上奥に進ませるわけにはいかない。近付いて来る足跡を耳にしながら、ボータは油断なく武器を構えた。
 程なくして足音の主が姿を現した。

 子供である。角も牙も生えていないごく普通の子供…。
 しかしこの子供、どこかで見た事があるような…。

 懸命に記憶の糸を手繰っていたボータは、ハッとして顔を上げた。
「ま、まさか……ユアン…様?」
 すると男の子はムスッとした表情でこう答えたのだった。
「やっと分かったか。ちょっと遅いぞ、ボータ。」
 呆然としているボータの元へゆっくりと近付いてくる男の子   ユアン。
「しかしこいつら弱すぎるな。再訓練の必要があるのではないか?」
「ユアン様、大事な隊員達をこのようにしてもらっては困ります。ただでさえ人手不足なのですから。」
「凄い顔をして向かって来たのだから仕方あるまい?降りかかる火の粉は払わねばならん。」
「しかし、一体どうしてそんなお姿に…」
 ボータの言葉に思わず涙ぐむユアン。
「よくぞ聞いてくれた。これには涙、涙の物語があるのだよ。実はな…」
 こうしてユアンはポロポロと涙を流しながら話し始めたのだった。



 時は二時間前に遡る…。
 デリス・カーラン内のユアンの部屋に兵士が彼を呼びにやってきた。
「ユアン様、ユグドラシル様がお呼びでございます。」
「ユグドラシル様が?」
 目を通していた書類から顔を上げ、兵士をジロリと見やるユアン。
 ユグドラシルが自分を呼び付ける事はこれが初めてではない。こちらはこう見えても仕事が山ほどあると言うのに、何度くだらない用事で呼び付けられた事か…。
 だが今回の呼び出し限って、何故かひどく胸騒ぎがするのだった。長年培ってきた野生の勘が、行くべきではないとしきりに警告音を発しているのだ。

 断ろうか…しかしそうすると後が怖いな.。
 あまり気は進まないが、ここは素直に従っておく方がいいかもしれん。

「分かった。すぐに行く。」
 ユアンは溜息をつくと、渋々立ち上がりユグドラシルの部屋へ向かったのだった。


 「ク〜を幼稚園に行かせる事にした。」
 ユグドラシルが、やって来たユアンに放った第一声がこれであった。

 幼稚園?…そう言えばあいつ、そんな事を騒ぎまくっていたな。

「レネゲードをはじめ、クルシスに対して不穏な動きを見せている連中がいる現状、本当なら行かせたくはないのだが、なにしろク〜が煩くてね。あの超音波のような泣き声をこの先も聞き続けなければならないかと思うと、頭が痛くなってくる。そこで苦渋の決断をしたわけだ。」

 なにが苦渋の決断だ!

「そんなに心配なら、元の姿に戻せばよいのではないか?そうすればもう駄々をこねたりはしまい。」
「何を言っているの、ユアン。戻してしまっては意味がないじゃないか。あのクラトスがだよ、毎朝目覚めた私に『ミ〜、お早う!』って、笑顔で頬をスリスリしてくる姿を想像してみてごらんよ。」
「…それはちょっと…引いてしまうものがあるな…」
「だろう?…ク〜がやるから可愛いんだ。あのクラトスがやってくれたとて背筋が寒くなってしまうだけだよ。」

 ずいぶんな物言いだな、オイ…。
 ていうか、そもそもクラトスはそんな事はせんだろう?

「だからその毎朝の幸福を守る為にも、ギリギリまで彼を元の姿に戻す気はない。本当なら幼稚園にも行かせたくはないのだ。ク〜には四六時中私の傍にいて愛嬌を振りまいていて欲しいのだからね。」
「……そうか…。で?ク〜はいつから幼稚園に行くんだ?」
「明日から。」

 それはまた急な話で…。

 溜息をつくユアン。
「分かった。では私はク〜の警護の為に毎日幼稚園に送り迎えをすればいいわけだな?明日からそうするとしよう。」
 これで用は済んだとばかりに踵を返し退出しようとしたユアンであったが、すぐにユグドラシルに引き止められた。
「違うよ、ユアン。」
「違う?」
「半分は当たっているけど、半分は違う。」
 そう言いながら、怪訝な顔のユアンに向かって手を翳すユグドラシル。するとなんとユアンの体が瞬く間に小さくなって行き、気付くと彼は四、五歳ぐらいの幼児の姿になってしまっていたのだった。
「!!…な、なにをするんだ!?」
「だって、送り迎えだけじゃ安心できないのだもの。そうだろう?幼稚園をテロリストが占拠するかもしれないし、爆発事故が起きるかもしれないじゃないか。」
「お前はテレビの見過ぎだ!」
「そうならないまでも、悪ガキどもにク〜が苛められるかもしれない。」
「あいつが黙って苛められているような玉か!」
「だから、常に一緒にいて目を光らせておく必要があるんだ。」
「だったら、私などではなくお前自身が行けばいいだろう!年も近いし打って付けではないか!」
「そうしたいのは山々だけど、私は忙しくてね。」
 すこぶる残念そうに、のたまうユグドラシル。
「私だって仕事がたまっているんだ!」
「ユアンの仕事なら他の者にだって務まるだろう。お前がいなくてもさして影響はない筈だ。」
「……一つ聞いてもいいか?」
「何?」
「クラトスがク〜になった時、あいつは姿かたちはおろか頭の中身に至るまで幼児化していた。それなのに、何故私の場合は頭の中身も声も、元のままなのだ!?」
「元のままでも知能は立派に四、五歳並みでしょう。今更変える必要なんてないじゃない…なんて事は言わないよ。」
「言っているではないかっ!!」
「だってさ、頭の中まで四、五歳にしてしまったらク〜を守れなくなってしまうじゃない。声は…その方が渋くて素敵でしょ?」
「幼稚園児が渋い必要などないだろうっ!?」
 しかしユグドラシルは、そんなユアンの抗議も素気無く却下した。
「それより名前を考えなくちゃね。『ドジ』のままじゃク〜が気付いちゃうだろうし。」
 楽しそうに考え始めるユグドラシル。いつの間にかミトス口調になっているが全く気付いていないようだ。楽しい事に没頭してしまうと、彼はいつもミトス口調になる。そうなったら最後、人の言葉に耳を傾けなくなる事は分かっていたが、一応抵抗を試みるユアン。
「私の名前はユアンだが?」
「う〜ん、ドジじゃなくてバカっていうのはどうだろう。それじゃあ、あまりに単純すぎるか…」
 案の定ユグドラシルはユアンの言葉など全く聞いていないようであった。それでも諦めずに殊更名前の部分を強調して繰り返すユアン。
「私の名前はユアンだ!!」
 しかしそれさえも無視されてしまい、ユアンはだんだん虚しさを覚え始めていた。
「そうだ!フールなんてどう?それがいいや。フールにしょう!いいセンスしてるでしょ、僕。」
英語になおしただけではないか!!
 ついに爆発するユアン。しかしユグドラシルはユアンの怒鳴り声も何のその、すっかり悦に入ってしまっているようである。

 この際名前などどうでもいい。
 いや、どうでもよくはないが、さしたる問題ではない。
 それよりもだ…同じ小さくするのなら私もク〜のように全てを四、五歳並みにして欲しかった。
 そうすればこれ程までに自分が惨めに思える事などなかっただろうに…。

 ユアンはさめざめと涙を流しながらそう思ったのであった。



 場所は再びシルヴァラントへと戻る。
「成程、そんな事が…」
「そうなのだよ。全く、ユグドラシルの我儘にも困ったものだ。そんなわけでしばらくここには来れなくなるだろう。こちらもなるべく早く元の姿に戻れるよう努力するつもりだが、それまで留守を頼む。」
「その事でしたらご心配なく。というか、そんなに急いで元に戻らなくてもいいのでは?ユアン様がいたところでどうという事はありませんし、それに今のユアン様、とても可愛らしいですよ。」
「…何か言ったか?」
「い、いえ、何も…」
 ユアンに睨み付けられ、慌てて取り繕うボータ。
「そうそう、不穏な動きと言えば、あのリーガルが脱走したようなのです。」
「リーガル?…誰、それ?」
 ボータは溜息をついた。
「リーガル・ブライアン公爵。レザレノの会長ですよ。」
「ああ、確かヴァーリの件で恋人を殺したとか言う…」
「そうです。その男ですよ。」
「あの男はいずれ使えると思っていたのだが、そうか、脱走したか…。しかし脱走とは穏やかではないな。」
「ヴァーリに復讐でもするつもりなのでしょうか?…いずれにせよ、今回の件とは関係がないと思いますが、一応お耳に入れておいたほうがよろしいかと思いまして。」
「うむ…しかしク〜の入園時期にまるであわせたかように脱走したのが少し気になるな。何もないとは思うがちょっと調べて見てくれんか?とにかくまた新しい情報が入ったら知らせてくれ。あと、クルシスの動きも定期的に探らせるように。なにかあっても私はここに報告には来れないだろうからな。」
「承知致しました。」
「頼むぞ、ボータ。…虫の知らせってやつだろうか、何故だか妙に胸騒ぎがしてならないのだ。何事も起こらなければいいのだが…」
 不安そうな表情を浮かべながら、窓の外へと目をやるユアン。
「まあ、私も十分に気を付けるとしよう。だがその前にお前にやってもらいたい事があるのだ。」
「は?なんでしょう。」
 久し振りのユアン直々の指令に緊張を走らせるボータ。
 しかしユアンの頼みとはレネゲードの任務とは程遠いものであった。
「町へ行って子供の服を二、三着買って来てくれないか。ユグドラシルの奴、ケチなものだから服まで用意してくれなかったのだ。仕方なく大人の服を着ているのだが、どうにも動きにくくてな。どうせなら今流行のデザインがいいな。カッコいいやつを頼むぞ。」
「……」
 呆れ果て返す言葉もなく、財布を手に出て行こうとするボータ。
「ああ、靴も忘れないようにな。牛革だぞ。合成ではどうも足にしっくりせんからな。」
 暢気そうな間延びしたユアンの声を背に、ボータはありったけの力を込めて乱暴にドアを閉めたのだった。

 こうして様々な不安要素を抱えた中、ク〜の幼稚園生活はスタートしたのだった。



 翌日、ユアンはク〜と共に『聖マーテル幼稚園』にいた。
「は〜い、みんな。今日から新しいお友達が増えま〜す。」
「僕、ク〜っていうの。よろしくね!」
「…フールだ。」
 満面に笑みを浮かべ元気よく自己紹介するク〜に、ムスッとした様子でつまらなそうに名乗るフール。
「みんな、仲良くしましょうね♪」
「は〜〜い!!」
「それにしても、二人とも丁度いい時に来たわ。もうすぐお遊戯会があるの。二人とも参加出来るわね。」
「おゆうぎかい?」
「組ごとに分かれて、みんなで歌や踊りや、劇をやったりする会よ。」
 それを聞いたク〜は目を輝かせた。以前ゼロスに言われた言葉が浮かんでくる。

“幼稚園っていうのはお前みたいなガキンチョが集まって、皆で歌ったり、踊ったりとワイワイやる所だ”

 その言葉に憧れてク〜は幼稚園にやって来た。お遊戯会とは、まさに、ク〜が思い描いている幼稚園の姿そのものだったのである。
「わ〜い!おゆうぎかい、楽しみだな〜〜!」
 飛び跳ねて喜んでいるク〜を見て微笑みを浮かべる先生。
「この組は『浦島太郎』の劇をやるの。二人にはその他大勢のお魚さんの役を…」
「ならば私が浦島太郎の役をやってやろう。」
 先生の話にいきなり割り込んでくるフール。そのあまりに偉そうな口調に、先生は思わすフールを見やった。
 そこへク〜も便乗してきた。
「あ、ク〜も、ク〜も〜〜!ク〜も浦島タローさんやる〜〜!!」
 どうやらク〜は、『浦島太郎』が何たるかを分かっていないようだった。浦島太郎は何人も登場してくるものだと思っているらしい。苦笑を浮かべ説明を始める先生。
「あのね、ク〜ちゃん、浦島太郎っていうのは一人しかいないのよ。だからそんな何人もの人が演じる事は出来ないの。」
「ふ〜ん、そうなの?」
「ええ。それにお遊戯会はもうすぐでしょう?浦島太郎は主役でいっぱい台詞がある大変な役だから、もう誰がやるか決まっちゃっているのよ。」
「そっか〜。」
 ク〜は残念そうにそう言うと、隣のフールを見た。
「もう決まっちゃってるんだって。残念だね〜、フールちゃん。」
「フ、フールちゃん?」
 その呼ばれ方に、寒気に襲われ思わずブルブルと体を震わせるフール。
「ク〜もやりたかったんだけどな。」
 ク〜はそんなフールの様子に気付く事無く、しきりに残念がっている。
「ごめんなさいね。」
「ならば我々は何をすればいいのだ?」
「わ、我々?」
 目を丸くして再びフールに目をやる先生。
「そ、そうね。二人にはその他大勢のお魚さんの役をやってもらおうと思っているの。あれなら台詞もないし適当に踊っていれば誤魔化せるから、今からだって十分に間に合うわ。」
「適当に誤魔化すの?…ク〜、そんなの嫌だな。やっぱりやるからには命をかけてやらないと…ねえ、フールちゃんもそう思うでしょ?」
「…そ、そうだな…」
 強張った笑顔を浮かべるフール。

 適当、結構ではないか。そもそもガキンチョのお遊戯一つに命を賭ける必要がどこにある?
 どこまでも気真面目な男だな。
 恐るべし、クラトス…。

「そ、そうね。今のは先生の言い方が悪かったわ。お魚さんの役はその他大勢とはいえ、その動き一つで舞台が映えるかどうかが決まるのだから馬鹿には出来ないわよね。頑張りましょう。命を賭けて最高の舞台に仕上げましょうね。」
「うん。ク〜、頑張ってお魚さんやるね!」
「それじゃあ二人はまず、頭にかぶるお魚さんの仮面を画用紙で作りましょうか。」
 そう言いながら二人に画用紙を渡す先生。
「どんなお魚さんがいいかしらね〜。青いの?それとも赤いのがいいかしら。」
「ク〜はマグロさんがいいな!」
「はい?」
 普通幼稚園児が魚を描く場合、それは単に魚なのであって、マグロとか固有名詞を指すものではない。少なくとも先生の経験上ではそうであった。先生がこの予期せぬ反応に戸惑いを隠せずにいると、フールが追い打ちをかけて来た。
「では私はクジラにしよう。」
「えっ!?」
「いかんのか?」
「いえ、別にいけないと言う事は……でもマグロにクジラというのはちょっと…」
「え〜〜、駄目なの?どうして?だってマグロさんって美味しいんだよ。」
「それを言うならクジラさんだって美味いぞ。」

 いや、そういう問題ではないだろう…。

 思わず顔を引き攣らせる先生。
「あのね、マグロさんもクジラさんも大きいでしょ。だから竜宮城のお庭には入れないのよ。」
「え〜〜!!嫌だ、嫌だ、ク〜はマグロさんをやるんだ〜〜!マグロさんじゃなきゃいや〜〜!!」
 地団駄を踏みながら泣き出すク〜。
 それを見ていたフールも同じように地団駄を踏んでみる。幼稚園児の振りというのもなかなか大変なものだ。
「フールも、クジラさんでないと承服出来ん。(バタ、バタ)」

 同じようにしながらも、何故かフールはちっとも可愛く映らないのは気のせいであろうか?

 超音波のような物凄い鳴き声を発するク〜に、無表情に地団駄を踏んでいるフール。この二人を前についに先生は折れた。
「分かった、分かりました。好きにしていいからもう泣かないで。」
「わ〜い、ほんとに?」
 ピタリと泣きやむク〜。

 このガキ…まさか嘘泣きだったんじゃねえだろうな。

 そう思ったものの、そんな事はおくびにも出さずに笑顔を浮かべるところは、さすが先生と呼ばれるだけの事はある。
「それじゃあ、先生はちょっと二人の分の台本をコピーしてくるから、その間みんなはそれぞれ練習していてちょうだいね。」
「は〜〜い。」
「ク〜ちゃんとフールちゃんは素敵なマグロさんとクジラさんを描いていてね。」
「は〜い!」
「承知した。」
 疲れ切ったように教室を出る先生。

 あの二人にはこの先も苦労を強いられそうな予感がする。
 しっかりとチェックを入れておかなければ…。

 そんな事を考えながら教員室へと向かっていた先生は、庭で窓に張り付くようにして自分の教室を覗いている不審な男を発見する。
「ちょっとあなた!何をしているんですか!?」
 中を覗く事に熱中していた男は、その声に文字通り飛び上がると慌てて振り返った。
「い、いや、わ、私は別に怪しい者ではない。」
「見るからに怪しいじゃないですか!」
 男がしている手枷に目をやる先生。
「こ、これは手枷を模したアクセサリーだ。」
「は?…アクセサリー?」
「フ…そうだとも。今、アルタミラで大流行しているのだ。知らんのか?」

 し、知らなかった…。

 アルタミラと言えばお金持ちが集まるリゾート地。いわば流行の最先端を行く町だ。その町で流行っているファッションを知らなかったとは、園内一お洒落な女を自負している先生にとって、プライドが許さない事であった。
 そこで先生はすかさず手帳を取り出すとチェックを入れ始める。
「それはお幾らなのかしら?アルタミラに行けば手に入れられるの?」
 しかし、男はすでに姿を消していた。
「あら、どこへ行っちゃったのかしら?…もしかして騙された!?」
 唖然とする先生。

 嫌だわ…。あの二人の園児といい、あの男といい、今日は変な事ばかり起きる。
 占いでは今日は超ラッキーな日の筈なのに…。

「とにかく気をつけた方がいいかもしれないわね。」
 先生は溜息をつくと、首を振り振り再び教員室へ向かって歩き出したのだった。

 その姿を物陰から窺い見る影が一つ…先程の手枷の男であった。
「あの皆に紹介されていた二人の園児。そのどちらかがク〜というわけか…。だが、ガラス窓に張り付いてみたものの、中の声は全く聞こえなかった。これではどちらがク〜なのか分からん。もう少し様子を見る事にするか…。」

 失敗は許されない。
 ク〜という子供には恨みがないが、今の私にはどうしても金が必要なのだ。
 フ…考えてみればおかしな話だ。我が罪を償う為にまた罪を重ねる。
 果たしてこの罪が償える日など来るのだろうか…。

「人とはどうしようもなく愚かな生き物なのかもしれんな…」
 男は自嘲的な笑みを浮かべそう呟くと、何処かへと走り去って行ったのであった。


−つづく−




果たして手枷の男の正体は?(←もう分かり切っている)
そして男の目的とは?
サスペンス風に盛り上がりを見せつつ、物語は次回へと続いて参ります。(←ちっとも盛り上がっていないって!)
しかし、ゼロス君の子守唄なのに肝心のゼロス君が登場してないね…。
まあ、まだ導入部ですからね。
次回登場しますよ!たぶん…。