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午後三時になると聖マーテル幼稚園は迎えの保護者で一杯になる。その殆どは園児の母親で、彼女達は此処彼処で輪を作り自分の子供が出てくるまでの間、世間話に花を咲かせるのが常であった。
ところが今日に限ってそんな中に居心地が悪そうに小さくなっている男が一人…。男は何とかしてこの場に溶け込もうとしているようであったが、その努力の甲斐もなくすっかり浮いてしまっていた。
それもその筈。黒い髪に引きしまった筋肉質な体…とそこまではいいのだが、その物腰や鋭い目からは何か危険なものが感じられ、どう見ても堅気の者とは思えない。せめて背広でも着ていればまた雰囲気も変わったのだろうが、残念ながら男の着ている服といえばお世辞にも「素敵な服ですね〜」とは言えないボロっちいもので、おまけにどういう訳か片袖が肩のところから破れて取れてしまっているのだ。しかし当の男は全く気にしていない様子で、これが当たり前であるかのように平然としている。
このファッションはこの男のポリシーなのか?。
はたまた単に付け直すのが面倒なだけなのか?
いずれにしてもこんな珍妙な姿が他の若奥様連中に受け入れられる筈もなく、男の存在はあからさまにしかとされていたのだった。
程なくして他の保護者達が次々に自分の子供を連れて帰って行く。保護者達は彼の横を通り過ぎる度に一様に不気味なものでも見るかのような視線を投げ掛けてきていたのだが、男はそれに耐え忍びながらひたすら待ち続けていた。
これは理想実現の名の元に、罪のない神子殺しを繰り返し行って来た業の深い自分に与えられた試練なのだ。「業に入っては業に従え。(←字も意味も違う!)」とも言うではないか。これぐらいの事に耐えられずして大樹の再生など出来よう筈もない。耐えろ!ひたすら耐えるのだ!!
そんな事を念じ続けながら男が待ち続けていると、ようやく先生がク〜達を連れて彼の元へやってきた。
「あなたがこの子達のお迎えの人?」
「はいそうです。いつもお世話になっております。」
笑顔を浮かべそう答える男を胡散臭そうに眺める先生。
これは入園時の面接にやってきた二人の保護者であるMr.M(実はミトス)という男を見た時にも思った事だが、今目の前にいるこの男も二人には全く似ておらず血のつながりなんて微塵も感じられない。昼間の手枷の男の事もあってか、自然、先生の頭の中に「誘拐」という二文字が浮かんで来てしまったのだった。
そんなわけで二人の引き渡しに躊躇する先生。
「最近物騒でもありますし、お迎えには原則的に保護者の方をとお願いしております。この子達の保護者はMr.Mという方の筈。それ以外の方ではお引渡しする事は出来ません。委任状でもあれば別ですが…。」
「おお、委任状!…これはうっかりとしておりました。ええ。確かに預かって来ております。」
ニッコリとして委任状を取り出し、先生に手渡す男。
すぐに確認してみたが別段不備もなく、Mr.Mの署名捺印もちゃんと入っている歴とした委任状であった。
「…分かりました。」
先生としては未だ不信感を拭いきれていないものの、こうして委任状がある以上渡さないわけにはいかない。そこで渋々ながら承知したのであったが…
「このおじちゃん、だ〜れ?ク〜知らないよ。」
このク〜の爆弾発言に、その場の空気が一瞬凍りついた。
「!!…やっぱり!!」
慌てて子供達を抱き寄せる先生。
「あなた、この子達を誘拐する気なのね!?」
「誘拐だなんてとんでもない。私はMr.Mの代理人としてここに参ったわけでして…その証拠にちゃんとこうして委任状だってあるではありませんか。(レネゲードで偽造されたものだけど)」
「でもこの子はあなたを知らないと言っているわよ!」
「それは…」
思わず口ごもる男を見て先生の目がキラリと光った。
怪しい…いかにも怪しい。
子供達を守るのが私の使命。絶対に渡してなるものですか!
挑戦的な先生の視線を受け、困ったような表情を浮かべる男。
するとそんな様子を今まで黙って眺めていたフールが突如口を挟んできたのだった。
「まあまあ先生。そう御懸念召されるな。大丈夫。この者は確かに我々と顔見知りだ。」
ご、御懸念?…この子本当に幼稚園児なの!?
「でもク〜ちゃんは知らないって…。ねえ?ク〜ちゃん。」
「うん。ク〜、知らないよ。」
「ほらご覧なさい。」
「フ…。ク〜が知らないのも無理がない。この者と会うのは久し振りだからな。以前会った時、ク〜はまだ幼かったから覚えていないのだろう。」
「幼いって…あなたも同い年でしょう?」
「私は馬鹿なこいつと違って頭がいいからな。ちゃんと覚えている。」
「ク〜だってお利口さんだもん!ミ〜がいつもそう言ってるよ!!」
ク〜は頬を膨らませて抗議をするが、フールはそんなク〜を押え付けると話を続けた。
「そうか、そうか、忘れてしまったのか。ではこの私が馬鹿ちんのお前にも分かるよう説明してやろう。お前はユアンなら知っているだろう?この人はそのユアンの弟さんでボータというのだ。」
あまりに予想外のフールのこの説明に今度はボータが目を丸くする番であった。
お、弟?私がユアン様の?…それはちょっと無理があるのでは?
よくもまあこうもポンポンと口から出まかせを言えるものだ。
しかしここで動じてしまったら先生の疑いを更に深めるだけなので、ボータは強張った笑顔を浮かべながらク〜に話しかけたのだった。
「本当に久し振りですね、クラトス…い、いえク〜ちゃん。すっかり大きくなって、見違えてしまったよ。おじちゃんの事を覚えていないかい?…ほら、ユアン様…いえ、ユアンの弟のボータおじちゃんだよ。」
ところがク〜は首を傾げると今度はこう言ったのだった。
「ユアンって、だ〜れ?」
辺りを不気味な沈黙が包み込んだ。ボータは口をあけたまま驚愕の表情でク〜を見ており、先生はそんな彼に更なる不信の目を向けている。
そこでフールは溜息をつくと仕方なくこう付け加えたのだった。
「ユアン…またの名をドジという。」
その一言で、ク〜はようやく得心したようであった。
「なあ〜んだ、ドジの事だったの?ドジならク〜も知ってるよ。そっか〜、ボタンさんはドジの弟さんだったんだあ。でも前に会った事はク〜全然覚えてなかったや。忘れていてごめんなさい。」
「それはいいのですが…私の名前はボタンではなくボータです。」
「ボータン?」
「……いえ。もうボタンだろうがボータンだろうが何とでもお呼び下さい。とにかくユアンの弟だと分かって下さればそれで結構です。」
「うん。ク〜分かったよ。ボータンはドジの弟さんなんだよね!…それにしてもドジって股にも名前があったんだ。知らなかったな。」
そう言いながらじっと自分の股を見詰めるク〜。
「ク〜のにも名前があるのかな?」
再び辺りに重苦しい沈黙が下りた。先生など心なしか顔を赤くしてしまっている。
こ、こいつは…そんなカビの生えたような大昔のギャグを恥ずかしげもなく口にするとは、何という大胆不敵な奴。
ムムム…恐るべしクラトス!
三人の大人達(といっても一人は幼稚園児だが)がなんと説明しようか困惑している中、しかしク〜はそんな空気に気付く事なく目を輝かせながらフールに話しかけて来たのだった。
「ねえねえ、フールちゃん。ク〜の股は何ていう名前なのかな?」
「(そんなの知るか!)…ま、まあ、それについては後で語り合うとしてだ。とにかくこれでボータが知り合いだと分かったわけだし、今日は帰ってもいいですかね。先生?」
「え、ええ。ご自由にどうぞ。」
先生はもう関わり合うのも面倒になってしまったようで、さっさと帰ってくれと言わんばかりの様子であった。
こうしてなんとか許可を得る事が出来、ホッとした顔で歩き出すフールとボータ。ク〜はそんな二人にちょこちょことついて行きながらまだ聞き続けていた。
「ねえ、フールちゃんの股の名前は何て言うの?」
「煩いぞ!ちょっとは静かに出来ないのかね、この口は…」
あまりのしつこさについにブチ切れたフールは、そう言いながらク〜の頬っぺたをつねりあげた。
「い、いひゃいよ〜。フールひゃん…」
「さっき後で説明すると言っただろう?少し黙ってろ!」
「ふぁ〜い。」
「よし…」
フールは手を離してやる。
「取り敢えずこれからゼロスの家に行くぞ。」
「うわ〜い。ゼロの家に行くの?ゼロに会うの楽しみだな〜!ク〜ね、今日作ったマグロさんを見せるんだ〜。」
嬉しそうに笑うク〜を見ながら、フール ユアンは頭をフル回転させていた。
自分までが小さくなってしまったが故にユアンは幼稚園の送り迎えを出来なくなってしまい、それで今回は急遽ボータに来てもらった訳だが、とんだ誤算だった。まさか先生があれ程不信の目をボータに向けるとは考えていなかったのだ。
こんな事が毎日続いた瀬には堪ったものではない。ただでさえ退屈な幼稚園生活を送らなければならないというのに、これ以上の揉め事は御免だった。とはいえ、あの面倒臭がり屋のユグドラシルが来てくれるわけもなく、そこでユアンはゼロスに白羽の矢を立てたのであった。
ゼロスは神子であるから当然教会直轄のこの幼稚園では顔パスだろうし、ク〜に関わる事をあいつが断る筈がない。まあ、ユグドラシルにとっては面白くない事かもしれないが、この際そんな事はどうでもいいのだ。黙っていれば分からないだろうし、何より優先されるべきはこの私の心の平穏なのだから。
利用できるものはとことん利用する…それが私の主義だ。
私一人が苦労して堪るか。お前にもきっちり背負わせてやるからな。
フフフ…待っていろよ、神子。
こうしてク〜とフール、ボータの三人はゼロスの家に向かったのだが、その後を例の手枷の男がつけている事には誰も気付かなかったのである。
場所は変わって、ここはゼロス邸裏の林の中。そこに蚊取り線香の煙にむせびながら屋敷の様子を窺う手枷の男の姿があった。
さすが林の中だけあってここは蚊が多い。こうして蚊取り線香に囲まれ防御していても、すでに何カ所か食われてしまっているほどである。男としては出来れば避けたい場所であったがここ以外に屋敷全体を見渡せる場所がない以上致し方のない事であった。
なにしろ連中が入って行ったのは神子の屋敷なのである。神子の屋敷ともなればセキュリティシステム万全の筈で、男の立場からすれば、まさかそんな中にのこのこと入って行くわけにもいかなかったのだ。
現在連中は庭に出てきており、何やら話の真っ最中であったが、距離がある為にここから聞き取る事は不可能であった。
「くっそお。せめて会話が聞こえていればよかったのだが…」
ボリボリと体を掻きながら呟く男。
実のところ、男には未だどちらの子供がク〜なのか分かっていなかった。だからこそ今回はぜひとも会話の盗み聞きをしたいと思っていたのであるが、こんな状況では今回も眺めるだけに止めるしかなさそうであった。
しかしだからと言って、男は今までただじっと手をこまねいていたわけではなく、ムショ仲間から得た情報からおおよその見当だけはちゃんとつけていた。
その情報によると、なんでもク〜という子は闘神と呼ばれる程の子供のようで(どんな子供?)、ならば当然落ち着きのある子だという事になろう。二人の内、落ち着いた子供といえば青い髪の子の方だ。もう一人の鳶色の髪の子供の方は泣くや喚くやのやりたい放題で単なる我儘なガキンチョというイメージしかなく、男の想像とはあまりにかけ離れていたのだった。
「やはりク〜とはあの青い髪の子供に間違いあるまい。しかし念には念を入れた方がいいだろう。確かな証拠が欲しい…。よし。ここは危険を承知でもっと近づいてみるか。」
男はそう決意をすると、蚊取り線香の火を消してゆっくりと屋敷に近付いて行ったのだった。
一方フールはそんな男が自分達の事を見ているなどとは知らず、ゼロスに今までの事をつぶさに説明して聞かせていた。
「ふ〜ん。ク〜が幼稚園にねえ。よくまたあのユグドラシルが許してくれたもんだ。」
「あいつはク〜にはとことん甘いからな。」
「確かにね。」
クスクスと笑うゼロス。
「しかしあんたのその姿、よく似合っているぜ。なんだかんだ言っても、あんた自身結構気に入っているんじゃないの?」
「貴様…殺されたいか?」
「冗談だって、冗談。そう怒りなさんな。」
可笑しくて堪らないといった様子のゼロスを前に、苦虫を噛み潰したような顔になるフール。
するとそこへク〜が駆け寄って来た。
「ねえ、お話し終わった?」
どうやらク〜は久し振りにゼロスに会えた事が嬉しくて堪らないらしく、先程からしきりにゼロスと話をしたくてうずうずしている様子だったのである。
「ええと…」
フールの方を気にしながら答えるゼロス。フールは仕方がないというように肩をすくめてみせると、出されたジュースに口をつけたのだった。
それを見たゼロスはニッコリと笑って言った。
「うん、もうすんだよ。」
「ホント?それじゃあこれ見て〜。これね。ク〜が作ったんだよ!お遊戯会でク〜、これを被って踊るんだ。」
ゼロスに褒めてもらいたくて、会心の作であるマグロのお面を得意気に見せるク〜。
しかしゼロスの言葉はク〜の期待したものとは違っていた。
「ほう、よく出来ているじゃないか。そうか。ク〜はメダカの役をやるのか。」
「違う!これ、メダカさんじゃないよ〜!」
えっ、違う?…だってこれはどう見てもメダカでしょ。
途端に不機嫌になったク〜を見て焦るゼロス。
「い、いや、ごめん。よく見りゃメダカじゃないよな……そ、そうか!これはししゃもだ。そうだろう?ししゃも、ししゃも。うん、美味しそうなししゃもがよく表現されていて素晴らしい作品だ。」
「違う〜〜!ししゃもさんじゃないもん。これはマグロさんなんだもん!!うわ〜〜ん!!」
ついにク〜は泣き出してしまう。
「え…マグロ?」
お面をまじまじと見るゼロス。
どう見てもこれをマグロと言うにはちょっと無理がある。しかしク〜の実体はあの天使様だけに、絵が下手なのは仕方がない事なのかもしれない。
ゼロスは慌ててク〜を宥めようとするが、ク〜の機嫌はそう簡単には直りそうもなかった。
そんな二人の様子を見て、くつくつと笑うフール。ク〜はフールを睨み付けると、
「笑うなんて酷い!そんならフールちゃんのも見てもらおうよ!」
「ん?ああ構わんぞ。私のはお前のと違って一目で分かる代物だからな。」
フールはニヤリと笑うと自信満々に自分のお面を取り出して見せたのだった。
それを見たゼロスは困惑の表情を浮かべる。
何?この大きな丸い物体は…。
なにやら背中に棒のようなものが突き出ているし、何かの塩焼きだろうか?
いくら考えてもこんな魚は思い浮かばなかったが、フールから放たれてくる「間違ったら承知しないぞ」オーラに迂闊な事を言うわけにはいかず、散々考えた挙句にゼロスの出した答えはこうであった。
「これは…フグ?」
ゼロスを蹴り飛ばすフール。
「お前の目は節穴か!?これのどこがフグだと言うのだ。これはクジラだ。よく見ろ。ちゃんと潮を吹いているだろうが!!」
「これ、潮だったの?…てっきり棒が突き刺さっているのかと…」
どうやらユアンも芸術には縁がないようだ。クラトスの事もあるし、もしかして四大天使は皆芸術音痴なのであろうか?
「や〜い、フールちゃんも間違えられた〜。」
「煩いぞ!大体こんな事をやりに来たわけではないのだ。ゼロス!さっきの話の返事は?」
「へいへい、お迎えの話ね。分かりましたよ。明日から俺が行けばいいんでしょう。あそこの園長とは顔見知りだし、後で連絡を入れておくよ。」
「もしかして明日はゼロがお迎えに来てくれるの?」
「ああ、そうだよ。」
「わ〜い、嬉しいな!…あ、でもク〜ね、お遊戯の踊りをまだ覚えられなくて、明日は残って先生と練習しなくちゃならないの。」
「へえ、そうなのか。一人で?」
「ううん、フールちゃんも…。フールちゃんはちゃんと踊れるんだけど付き合ってくれるの。」
「だったら何も問題はないだろう。俺が終わるまで待っていれば済む事だからな。」
「いいの?」
「ああ、構わないよ。」
「有難う。ゼロ、大好き!!」
ゼロスが微笑むのを見てようやく安心したのか、ク〜は嬉しそうにそう言うと抱きついてきた。
幸せ一杯になるゼロス。
それがフールには面白くないらしく、彼はク〜を無理矢理にゼロスから引き離すと不機嫌そうに言った。
「ほら、もう用は済んだんだ。とっとと帰るぞ。」
「は〜い。それじゃあゼロ、また明日ね〜。」
そしてク〜はフールに引き摺られるようにして帰って行ったのであった。
そこへちょうど現れた手枷の男。すぐ傍にク〜達の見送りに出て来ていたゼロスが立っている事にも気付かず地団駄を踏む。
「ムムッ、ちと遅かったか…。」
「あんた誰?」
その声にようやく男はゼロスの存在に気付いたようで、驚愕の表情を浮かべた。
まずい!勢い余って屋敷の真前に出て来てしまった!
ゼロスの不審気な視線を受け、男は慌てた。
「い、いや、単なる通りすがりの者だ。」
「ふ〜ん、通りすがりねえ…。でもこの先を進んでも行き止まりだぜ。」
「お、おう。どうやらそのようだな。御親切にどうも。…し、失礼した。」
すたこらさっさと逃げて行く男。
「変な奴。でもあの男、な〜んか、どこかで見た事があるんだけどね。誰だっけ?」
ゼロスは首を傾げながら屋敷の中に戻って行ったのだった。
そして翌日、その事件は起こった…。
ク〜達は昨日ゼロスに話した通り、お遊戯会の練習の為に教室に居残っていた。
「先生、遅いね。」
今日はゼロスがお迎えに来てくれる日だからであろうか、ク〜は何やら落ち着かぬ様子である。
「他の園児達を帰すのに時間がかかっているのだろう。もうすぐ来るさ。少し落ち着かんか。」
「うん…あの…あのね…」
「なんだ?」
「…キンチョ〜しちゃったのかな。なんだか僕、しっこしたくなっちゃったの。」
「ば、馬鹿。そんなもん我慢しないでとっととやって来い!」
「トイレどこだっけ?」
「廊下を右に行った突き当たりだ。」
「右ってどっち?」
「…箸を持つ方。」
その場で食事風景のパントマイムを繰り広げるク〜。
「分かった!こっちだね。」
フールが頷くのを見て大急ぎで飛び出して行く。
「まったく、あいつは右と左も分からんのか。」
苦笑を浮かべたフールは、ふと気配を感じて窓の方へ目をやった。しかしそこには誰の姿もなく、
「おかしいな。確かに気配を感じたのだが…。」
首を傾げるフール。
もちろんフールが感じた気配とは、例の手枷の男のものだった。
懲りもせずク〜達をつけ回していた男は、今日は二人だけで教室にいるのを見てチャンスとばかりに大胆にも窓を開けて中の様子を眺めていたのである。
フールがこちらを向いたと同時にその身を伏せた男はドキドキする胸に手をやりながら独り言つ。
危ない危ない、もう少しで見つかる所であった。しかし気配に気付くとは、さすが闘神と呼ばれるだけの事はある。心してかからねば…。
とそこへ先生が戻って来た。
「ごめんなさいね、ク〜ちゃん。すっかり遅くなっちゃって…。」
息を切らして駆け込んで来たのだが、教室にはフールしかおらず、ク〜の姿が見当たらない。
「あら、一人?」
「今、トイレに行っている。」
「そうなの。それじゃあ、先に始めていましょうか。」
そう言って音楽をかけ始める先生。
その会話を窓の外で聞いていた男の目がキラリと光った。
ムッ、聞いたぞ。あの教諭は今確かにあの子供の事をク〜と呼んだ。
間違いない。あの青髪の子供こそがク〜なのだ!!
「今こそ決行の時!!ウオオオオオ〜!!」
奇声を上げ中へと踊り込む男。
「!!」
フールは突進してくる男に向かって咄嗟に術を放とうとしたのだが、そこへ先生が抱きついて来たのだった。
「キャ〜!キャ〜!助けて〜〜、殺されるう!!」
「ば、馬鹿。離せ。これでは動きが取れんではないか!」
結局フールは術を放つ事が出来ず、男に押さえつけられてしまう。それから男は邪魔な先生をつまんで脇に放り出すとフールに薬を嗅がせて眠らせ、連れ去って行ってしまったのである。
その直後にク〜が戻って来ると、先生は腰を抜かして悲鳴を上げ続けていた。
「先生!?…どうしたの?」
「フールちゃんが…フールちゃんが化け物に攫われた〜〜!!」
「フールちゃんが!?…大変だ。助けなきゃ!!」
羽を広げ慌てて飛び出して行くク〜。
それを見た先生はまたもや悲鳴を上げた。
「ひぇ〜〜〜、飛んだわ!そ、空を飛んで行ったわ〜〜!!」
先生はもう錯乱状態に陥っていた。
そして先生は他の先生が駆け付けてくるまでの間、狂ったように叫び続けていたのである。
ボータがそのフール誘拐事件があった事を知ったのは、本当に幸運としか言えない偶然であった。
その時ボータはヴェントヘイムの屋根裏にいた。と言っても別にそこに居住しているわけではなく、彼はクルシスの動きを探っていたのである。
「まったく…なんで私がこんな事までしなくてはならないのだ。」
ぼやきながら、隊員が作った図面を頼りにユグドラシルの部屋を目指すボータ。隊員達にやらせようにも彼らではどうにも頼りない為にこうして自ら出向いて来たのであったが、一歩進む度に屋根裏がギシギシと軋む耳障りな音が聞こえて来て気になって仕方がない。最近デスクワークが続いた所為か、どうやら太ってしまったようだ。
しかし幸いにして下にいる者達には気付かれる事はなく、なんとか無事に目的の場所に辿り着けたようであった。
念の為に今一度図面に目をやり、間違いがない事を確認してから下を覗くボータ。
ところが…
「む?何だこの湯気は…。」
蓋を開けた途端に大量の湯気がボータの視界を遮って来たのだった。
ここは浴室だったのか…。
してみるとユグドラシルは入浴中という事か?
男の裸を覗く趣味はなかったが、これも任務の為と割り切るボータ。だが目を凝らしてようやく見る事が出来たそれはユグドラシルではなく、てるてる坊主のようにのっぺりとした顔をした女の姿であった。
「!!」
驚愕のあまり思わず仰け反ってしまうボータ。
するとその物音に女の方でも彼の存在に気付いてしまったようで、女は慌てて前を隠すと大声で叫んだのだった。
「そこにいるのは誰じゃ!…曲者じゃ〜、出会え!出会え!わらわの裸を覗いている者がおるぞ!!」
ボータは女にお湯をぶっ掛けられ、声にならない悲鳴を上げると大急ぎで逃げ出した。
その背後で駆け付けて来た女中が女を宥めている声が聞こえてくる。
「落ち着いて下さい。ここはデリス・カーラーンでも最奥に位置するヴェントヘイム。曲者などが入って来れよう筈もありませぬ。(あんたの裸なんて覗く物好きがいるわけないでしょう)」
「言われてみればそうじゃな…。してみるとわらわの気のせいか。」
「恐らくそうでございましょう。」
どうにかこうにか影響のないところまで逃げて来たボータはホッと胸を撫で下ろした。
酷い目にあった…。
声から察するに、恐らくあれはプロネーマであろう。
実(げ)に恐ろしきは女なり…化粧を落とすとまるで別人ではないか。
とにかく隊員達にはせめてデータだけは正確に取るよう注意しておく必要があるな。
そして気を取り直して本来の目的地であるユグドラシルの部屋を探し始め、散々彷徨った挙句にようやくそれらしき部屋を探し当てたのであった。下から聞こえてくるのは確かにユグドラシルの声であり、今度こそここが目的地である事に間違いはないようだ。
早速中の様子を覗くべく、ゆっくりと部屋のすみの方へと移動するボータ。
相変わらず動く度に彼の重みで天井板が軋んでいたのだが、慣れとは恐ろしいものでもうボータには全く気にならなくなっていた。その事が後なって恐ろしい災難を招く事になるのだが、今の彼にそれが分かろう筈もなく、ボータは天井の板をずらすと中を覗き込んだのだった。
ユグドラシルは部下から彼宛ての手紙を受け取っている所だった。
「なんだこれは?」
「はい。たった今クルシスの私書箱に届いたものなのですが、いつものファンレターと違って宛先が『クルシスのお頭へ』となっていたものですから…。このまま事務局の方で処理をしようとも思ったのですが、やはり一応ユグドラシル様に目を通して頂いた方がよろしいかと思いまして封を切らずにお持ちした次第です。」
「…そうか。では読んでみるとしよう。」
そう言って訝しげに中に目を通したユグドラシルであったが、その途端に表情を一変させた。
「なんじゃこりゃ〜〜〜!!」
「ど、ど、どうなさいました!?」
慌てる部下。
「これは脅迫状だ。ク〜が誘拐されたようなのだ。身代金に300万ガルドを要求してきた。」
「な、なんと!」
「ああ!どうしよう、どうしよう…」
ぐるぐると部屋の中を歩き回るユグドラシル。
「こんな大金、今のクルシスに用意出来るわけがない。そうだな…まずは教会に金を掻き集めさせよう。そして足りない分は私のヘソクリで…。ああ、もう!一体ドジは何をやっていたの!?こんな時の為にあいつをク〜に付けたというのに本当に役立たずなんだからっ!」
するとそこへもう一人の部下が駆け込んで来た。
「ユグドラシル様、大変です!たった今幼稚園から連絡がありまして…」
「煩いな!ク〜が誘拐されたんだろう?そんな事はもう分かっているよ。今対策を検討中なんだ。」
「いえ、誘拐されたのはク〜様ではありません。」
「え?」
ユグドラシルは動きを止めるとまじまじと部下を見た。
「今何て言った?」
「誘拐されたのはク〜様ではなく、フール様です。」
「ク〜は誘拐されていない?」
「はい左様で。教諭の話では誘拐されたのはフール様お一人だそうです。」
「なあんだ。心配して損した。それじゃあお金なんて用意する必要はないわけだ。」
「はい?…しかしそれではフール様が…」
「どうして私がフールなんかの為に金を用意しなくちゃならいのさ。ク〜が無事ならそれでいい。フールなんて関係ないね。」
それを屋根裏で聞いていたボータは目を剥いた。
ひ、酷い。あんまりだ。
お労しや、ユアン様〜〜!
ユグドラシルは完全にユアンを見捨てるつもりのようだ。ならば我々の手で救出するまでの事。
直ちに作戦を練るべく戻ろうとしたボータであったが、なんとその目の前に突然槍が突き刺さって来たのだった。
「どひゃ〜〜〜!!」
間一髪で刺さるのは免れたものの、ボータは驚きのあまり尻もちをついてしまい、その結果ただでさえ軋んでいた天井板を突き破ってしまったのであった。
下からユグドラシルの声が聞こえてくる。
「私が気付いていないとでも思っていたのか?お生憎様。あれだけギシギシいっていれば誰だって気付くって〜の!」
天井板の割れ目から覗いているボータの尻を槍で突きまくるユグドラシル。
「キャ〜〜〜!」
ボータは悲鳴を上げ、彼方此方の天井板を踏み抜きながら逃げ出したのであった。
それからユグドラシルを始めとする多くの兵士達に追いかけられること半時、ようやく脱出に成功したボータは救いの塔を憎々しげに見上げた。
おのれユグドラシル!よくもユアン様を…。
ですがご安心ください、ユアン様。あなた様は必ずやこのボータがお救い致します。
それまでどうかご無事で…。
そしてボータは今一度救いの塔を睨み付けると、痛む尻をさすりながら何処かへと姿を消したのであった。
−つづく−
※果たしてユアンの運命や如何に?……しかし何だかこの話って、くだらない部分を削り取れば一話で終わる内容じゃないかと思ってしまうのは私だけでしょうか…。