2
「ねえ、お姉ちゃん。ゼロがいなくなっちゃったよ。」
「仕事に行ったんだろ。いいからあんな馬鹿は放っておきな。」
しばらくの間怒りが治まらぬ様子でゼロスが消えた窓の外を睨み付けていたしいなは、ク〜の声にようやく我に返ると吐き捨てるようにそう言って振り返ったのだが、その目が物欲しそうなク〜の視線とぶつかり、慌てて自分の胸へと手をやり隠した。
「パパ、おチチ〜!」
「……」
はっきり言ってしいなはこの子とは関係ないし、ゼロスの頼みを聞かねばならない義理もない。しかしだからと言って適当に誤魔化して逃げることは彼女の性格が許さなかった。困っている人を見ると放っておけない…それがしいなだったのである。
恐らくゼロスは、そんな彼女の性格をちゃんと計算した上でク〜を置いて行ったのだろう。それはそれで頭にくるが、ク〜に罪はない。
(ホント、あたしって自分でも嫌になるほどお人好しだよね。でも一体何から話せばいいのやら…。)
しいなは溜め息をつくと、ク〜の手を取り椅子に座らせた。
「……あ、あのさ。まず最初に言っておくけど、あたしの胸を吸ってもお乳なんて出ないからね。」
「え〜!だってゼロがお姉ちゃんのは世界一のおチチだって言って…」
「この際!!」
ク〜の言葉を遮るしいな。
「この際、あのアホ神子が言ったことはきれいさっぱり忘れることだね。あいつの言っていることは半分以上嘘なんだから。」
「でもお姉ちゃんのは大きいし、ほんとにおチチがいっぱい入っていそうだよ。それなのにほんとにパパじゃないの?」
「あのねえ、よ〜くお聞き。パパっていうのは通常男の人がなるものなんだよ。だからあたしはパパじゃない。それに『パパ
=
お乳の出る人』ってわけじゃないんだ。ク〜だって絵本とかで赤ちゃんの絵を見たことがあるだろう。そんな時、赤ちゃんを抱いているのは決まって女性じゃなかったかい?」
「う…うん…」
「それは、赤ちゃんにお乳をやるのはパパではなくママの役目だからなんだ。お乳と言うのは、女性が、その中でもお母さんだけが持つ特別なものなのさ。あたしはまあ一応女性だけどお母さんじゃないし、パパはパパで、さっき言ったように男性だからお乳は出ないんだよ。それにそもそもパパの『ちち』と赤ちゃんが飲む『ちち』とは字が違うんだ。」
しいなは紙を取り出すと、そこに『父』、『乳』と書き並べた。
「この『父』がパパのこと。そしてあんたが飲みたいと言っているのはこっちの『乳』。ね、違うだろう?まあ、ク〜が読むのは平仮名がほとんどだろうから勘違いしたって無理もないけどさ。」
「そんな……それじゃあ、どしてパパのことをチチなんて言うの?だからク〜はおチチがもらえると思ったのに…。」
「それは…」
必死に記憶の糸を手繰り寄せるしいな。
「そう。確かそれは……昔、男性を敬って言う言葉として『ち』が使われていてね。ほら、お父さんの兄弟のことをおぢ(じ)さん(伯父・叔父さん)って呼ぶだろう?あんな感じさ。お父さんの『ちち』はそれを重ねた言葉なんだ。その『ち』がどこからきたかは色々と説があるけど、いずれにせよ、パパがお乳を出すって意味じゃないことは確かだね。」
「パパのチチは飲むおチチのことじゃない?…おチチをくれるのは女のママ…」
「そういうことだよ。」
ク〜は愕然とした。
言われてみれば確かに、絵本で子供と一緒に出てくるのは大体が女の人…つまり母親だった。もちろん父親と子の話もなかったわけではないが、その父親は子供を抱っこしてスリスリなんてしなかったし、ましてやお乳をあげている姿なんて皆無であった。
もっと早くに気付くべきだったのかもしれない。しかしある絵本で、子供が父親のことを『ちちうえ』と呼んでいるのを見てから、ク〜の頭の中ではすっかり『パパ=父=乳』というイメージが定着してしまったのだった。
だが、そうなるとユアンが言っていたことは本当だったことになり…
「それじゃあ……ク〜、ドジに酷いこと言っちゃった。」
「ドジ?…ドジってもしかしてゼロスが言っていた、ク〜が父の日にプレゼントを渡そうとした人のこと?」
「うん。ドジはク〜のママでパパなの。いつだってク〜と遊んでくれるし、色々教えてくれる。ク〜のことも一番分かってくれているんだよ。だからパパの日のプレゼントでグミを持って行ったの。でも受け取ってくれなくて。だったらおチチをもらおうと思ったんだけど、今度は『チチなんてでるわけないだろ!』って怒鳴ってきて…。それでク〜ね、てっきりドジは意地悪しているんだって思って、『ドジなんてだいっきらいだ!』って言っちゃったの。きっと怒っちゃったよね。」
「その時あんたはまだパパはお乳が出ないって知らなかったんだから仕方がないよ。そのドジって人もそれはちゃんと分かっているさ。」
「……でも、それだけじゃないの。あのね、最近、ドジがちっとも遊んでくれなったんだ。たまに姿を見かけて声をかけようとしても逃げるようにどっかにいっちゃうようになったの。どうしてかなって、いっぱい考えたけど分からなくて…。今日プレゼントを持って行ったのもそんなことがあったからなんだ。ドジはママの日のお花は受け取ってくれたから、パパの日もプレゼントをあげれば喜んでくれて、また前みたいに遊んでくれるようになると思ったの。でも…駄目だった。たぶんドジはク〜のことが嫌いになっちゃったんだ。」
「そんなことはないよ。そりゃあ、どんな親だって時には自分の子供が煩わしいって思うこともあるさ。でもだからと言ってそれで嫌いになってしまうことなんてないよ。」
「だったら、どうしてグミを食べてくれなかったの?どうしてク〜を追い払おうとするの?嫌いになったとしか思えないじゃない!」
「それは…」
「考えてみたら、ドジはク〜のホントのママでもパパでもないんだよね。ク〜はドジのことが大好きだけど、ドジの方ではきっと嫌々ク〜の面倒を見ていただけなんだ。でも…ク〜がいるところは大人ばかりで、みんなク〜のことなんて構ってくれなくて。ク〜の話をちゃんと聞いてくれるのはドジだけなの。だからドジに嫌われたらク〜、独りぼっちになっちゃうよ。もうおチチなんていらない!ク〜はただドジにずっとそばにいてほしいの!!」
そのまま大声で泣き出してしまうク〜。
しいなの脳裏に里での自分の姿が浮かんでくる。
彼女もある事件をきっかけに里では浮いた存在となっていた。周りから受ける視線全てに敵意を感じてしまい、時々優しい言葉をかけてくれる人がいても素直に受け入れることができず、すっかり心を閉ざしてしまっていたのだった。
今日の薬草採りだって、単なる口実に過ぎない。とにかく里へ帰る日を一日でも延ばしたかっただけだったのである。
もちろん彼女もこのままでいいとは思っていない。だが、何かしようとする度に恐れが先に立ってしまい、動けなくなってしまうのだ。
(この子はあたしと同じなのかもしれない)
大好きな人に避けられることほど辛いことはない。だからこそク〜はその大切な絆を取り戻そうと必死なのだ。そんなク〜の姿が自分と重なり、しいなの心は痛んだ。
だがしいなはドジという人物を知らず、彼が何故ク〜を避けるようになったかも分からない。そんな自分が何を言ったところで恐らく今のク〜の心には届かないだろう。それでもなんとかして少しでもク〜の心を軽くしてあげたいと思った。
しいなは少し考えた後、
「ねえ、ク〜。『おかあさん』って、漢字でどう書くか知っているかい?」
「かんじ?…ううん、分かんない。」
「大昔は文字なんてものはなかったからね。絵を使って考えていることを伝えていたんだ。それをだんだんと形を変えて簡単にしていったのが今の文字だと言われているんだよ。だから漢字を見ればそのものの特徴や意味とかを大体知ることができるんだ。」
そう言いながら再びペンを取ると先程の紙に『母』と書き足した。
「これがおかあさんの『はは』という字だよ。よく見てごらん。ほら、中に二つの点があるだろう。これ、なんだと思う?」
「う〜んと…おめめ?」
「ううん……実はこれはね、乳房を表しているんだ。」
「ちぶさ?」
「お乳が出る場所のことさ。母という字は、女性が赤ちゃんを胸に抱いてお乳を与えている姿を文字にしたものなんだよ。子供を産むのはお母さん。それはある意味命がけのことで、だからお母さんは我が子を慈しむ。きっと昔の人は、そんなお母さんてものを一番よく表しているのがお乳をあげている姿だと考えたのだろうね。この字にはね、『親』という意味の他に『物事を生み出すもととなるもの』という意味もあるんだ。」
「……」
「そしてさっき書いたパパを表す『父』という字。この字にもちゃんと意味があって、簡単に言うと、右手に斧を持って打つ姿を表しているんだ。お父さんとは物事を切り開いて行く者。つまり神器としての斧を持ち家族を率いる者なんだってことさ。子供を慈しみ育てていくのはお母さん。そしてお父さんはそんなお母さんや子供を守り導いて行く…。こんな風に、二人はそれぞれに役割を分担しているんだ。」
しいなはそこまで話すとペンを置き、ク〜の目を真っ直ぐに見詰め言った。
「いいかい?その役目をきちんとこなすのは、本当の親だって大変なことなんだよ。それをドジって人は、ずっと一人でやってきた。そんなこと、嫌いな相手にできることだと思うかい?…ドジはあんたを嫌ってなんていない。それどころかとっても大切に思っている。グミのことはきっと何か理由があったんだと思うよ。例えば…グミアレルギーだったとか、単にグミが嫌いだったとか。」
「……」
「まあ、そんなことは改めてあたしの口から言われるまでもなく、あんたにはもう分かっているんだろう。そして悪いことをしてしまったと反省して謝りたいと思っている。でもドジはあんたの本当の親じゃないから、また拒絶されるかもしれないと思い、怖くてなかなか決心がつかない……違うかい?」
驚いてしいなを見るク〜。彼女は自分が思っていたことをずばりと言い当てたのだ。しいなはそんなク〜に優しく頷いてみせると、先を続けた。
「あんたが恐れる気持ちは分かる。でもね。今のままじゃいつまでたっても状況は変わらないよ。本当の親かどうかなんて、そんなことは関係ないんだ。あんたがドジを大好きで慕っているなら、もうその時点でドジはあんたにとって立派な親なんだよ。あんたはドジにまた遊んでもらいたいんだろう?ずっと一緒にいたいんだろう?だったら謝るしかないじゃないか。勇気を出して、あんたの今の思いを全てぶつけるんだ。そうすればきっと許してくれる。」
ク〜はずっと俯いたままじっとしいなの言葉を聞いていたが、やがて涙をふき顔を上げると言った。
「そうだね。お姉ちゃんの言う通りかもしれない…………うん。ク〜、やってみるよ。おうちに帰ったらすぐにドジに謝る。許してくれないかもしれないけど、それでも何度でも謝ってみる。」
「その意気だ。仲直りできるといいね。」
「うん!」
なんとかク〜を奮い立たせることができ、ほっと胸をなで下ろすしいな。
ク〜はにっこりと笑うと、椅子から立ち上がった。
「……それじゃあ、ゼロが心配するといけないから、ク〜、そろそろ帰るね。今日は色々教えてくれて有難う。かんじのお話とか楽しかった。ク〜、これからはかんじのベンキョーいっぱいするね。」
「まあ、役に立てたならよかったよ。じゃあ、ゼロスの家まで送っていこう。」
「ううん、一人で大丈夫。すぐそこだし、ゼロのおうちには何度も行ってるし。」
「そうかい?気を付けて帰るんだよ。」
「うん。じゃあ、バイバイ、お姉ちゃん。」
「さようなら。」
笑顔で手を振りながら帰って行ク〜を、同じく笑顔で見送っていたしいなであったが、ク〜の姿が角の向こうへと消えると途端に表情を暗く一変させた。
“だったら謝るしかないじゃないか。そうすればきっと許してくれる。”
あの言葉はある意味しいな自身の願いであった。
どんなに望んでも決して叶うことのない願い…。
世の中にはいくら謝ったとて許されないこともあるのだと、彼女は知っている。たった一度の過ちが今まで築き上げてきた人間関係をすべて壊してしまう時もあるのだ。
「勇気を出して今の思いを全てぶつける…か。フッ、とんだお笑いぐさだ。こんなあたしが言う台詞じゃなかったよね…。」
しいなは寂しげな微笑みを浮かべそう呟くと、部屋へと戻って行ったのだった。
宿屋を出たク〜はそのまま真っ直ぐにゼロス邸へと向かっていたが、ふと足を止めると、日が傾き始めた空を見上げた。
もうすぐ今日が終わる。つまり父の日が終わってしまうということだ。
そう思った途端、ク〜はどうしても今日中に謝りに行きたくなってしまった。遅くなればゼロスが心配するかもしれない。だが、そうしなければユアンが永久に自分の前からいなくなってしまうような気がしてならなかったのだった。
「ごめんなさい、ゼロ。」
ク〜はもうすぐそこに見えているゼロス邸に向かって頭を下げながらそう言うと、踵を返し走り始めた。
新たに向かった先は道具屋の前。グミに代わるプレゼントの品を持っていきたいと思ったのだが、先のグミ作成時にお小遣いの殆どをつぎ込んでしまった為に、今ク〜の手元にはほんの僅かなお金しか残っていなかった。
店の品を見回すが、皆高価なものばかり。ク〜はポケットの中の残り少ないお小遣いをギュッと握りしめた。
するとそんなク〜に道具屋のおやじが笑顔で声をかけてきた。
「やあ、いらっしゃい!父の日のプレゼントを買いに来たのかい?感心だねえ、坊や。」
「うん、そうなんだけど。でも……あのね…」
「もしかしてお金の心配をしているのかい。大丈夫だよ。今日は特別だからね、子供のお小遣いでも十分買えるものもちゃんと用意してあるから。で、坊やはいくらぐらいの品がご希望だい?」
ここメルトキオは裕福な家庭が殆どである。だが、中には少ないお小遣いを握りしめて買い物に来る子供もおり、おやじはその点ちゃんと心得ていたのだ。
しかしそんなおやじも、おずおずと差し出してきたク〜の手のひらにのっている小銭を見るや思わず顔を引き攣らせてしまった。
そこにあったのは、僅か7ガルドだけだったのである。これではスペクタルズも買えない。だが『大丈夫』と言ってしまった手前、追い返すこともできず、おやじは困ってしまった。
「ああ…ええと……そうだねぇ。ばら売りの爪楊枝なんてどうだい?食後にシーシーするのに喜ばれると思うけれどね。あとは、ポケットティッシュなんていうのもあるよ。(さっきそこでティッシュ配りにもらったやつだから)ちょっと会社の広告が入っているが、そんなもん、鼻をかむのに関係ないからね。」
「それって元気になる?」
「えっ、元気?……いや、すっきりとはするかもしれないが元気になるかと言われると…どうかねぇ?」
「それじゃあ駄目なの。あのね、ドジはお仕事が忙しくて疲れているみたいだから、ク〜、元気になるプレゼントをしたいんだ。」
「そう言われても…」
おやじの目が、店に並んでいる品々の間をさまよう。
元気になるものと言ったらやはりグミが挙げられるが、一番安いアップルグミでも100ガルドする。それを7ガルドで売るのはさすがのおやじもいささか躊躇してしまった。なにしろこの店の売り上げはそのままおやじの老後の生活に関係してくるのだ。おまけするにも限度というものがあろう。
しかしながらこのおやじ。生来のお人好しであり、また厳つい顔に似合わず大の子供好きであった。故にク〜の悲しげな顔を見るのも忍び難く、そこで救いの塔から飛び降りる(=清水の舞台から飛び降りる)思いで、こう決断したのだった。
「よっしゃ!それじゃあこのアップルグミを持っていきな。出血大サービスだ!!」
ところがク〜は浮かない顔で…。
「どうしたんだい、坊や。」
「……ごめんなさい。グミは駄目なの。」
「へ?」
「あのね、ドジはグミが嫌いみたいなの。キョゼツハンノ〜とかいうのになっちゃうんだって。だから…」
「そ、そうなのかい?そりゃあ難儀なことだなあ。」
「うん、そうなの。」
二人は腕を組んで考え込んでしまう。
店の前を何人もの通行人が通り過ぎて行く。同じ恰好で固まっている二人の姿に、時に首を傾げながら、時にクスクスと笑いながら。
ク〜はそんな人の波をぼんやりと眺めていたのだが、その中にお婆さんの姿を見付けるとハッとして顔を上げた。宿屋でのしいなの言葉が浮かんできたのだ。
“これは薬草。里に具合が悪いお婆さんがいてね。これを煎じて飲むと良く効くんだ。”
「そうだ!あの葉っぱだ!!葉っぱだよ、おじさん!!」
「へ?葉っぱ?」
「うん。元気になる葉っぱ!あれなら大丈夫だと思うんだ。」
「元気になる葉っぱって……ほうれん草のことかね?」
「違う!お薬の葉っぱだよ〜!それを食べると具合の悪いお婆さんが元気になるんだってお姉ちゃんが言っていたの。」
「ああ、薬草のことか。しかし残念ながら薬草はないな。薬草ってやつは苦くてね。だから同じ回復するなら甘くておいしいグミの方がいいって人が増えてしまって、最近はどの店も扱わなくなってしまったんだよ。」
「そう。ないの…。」
がっくりと肩を落とすク〜。だがすぐに、しいなが薬草はこの辺りにたくさん生えているとも言っていたことを思い出した。
売っていないのなら自分で採ってくればいいのだ。そうすればこのおやじさんにも迷惑をかけずに済むではないか。
しいなに分けてもらうことは全く考えていなかった。このプレゼントはク〜の心そのものなのである。ユアンへの感謝の気持ち、謝罪の気持ち、そしてずっと共にいて欲しいとの願い。それら全てをユアンに伝えるにはやはり自分の力のみで手にしたものでなければならない。他人からもらったものでは駄目なのだ。
確か街の裏手に林があった筈。あそこなら草がいっぱい生えているし、きっとあの葉っぱもあるに違いない。
「おじさん、色々と有難う!」
「えっ?ちょ、ちょっと坊や?」
目を丸くしているおやじに深々と頭を下げると、ク〜は街の出口に向かって走り出したのだった。
−つづく−